2012年3月11日 (日曜日)

東北地方太平洋沖地震から一年だが

予想通りというのか予定調和というのか、テレビも新聞も特番、特集記事のオンパレードだ。
テレビ東京だけがいつも変わらない番組編成なのも予想通りである。

今月に入ってから今日に向けてクレッシェンドがかかっていた。私は勝手に3月ジャーナリズムと称している。恐らく8月ジャーナリズムと違って60年も持たないだろうところが違う点だが、客観報道から離れてお涙頂戴だの祈りだと風化させるなが満載だ。

正直言って見る気がしないし実際に見ていない。
備えは必要だ。復興も必要だ。被害者の追悼も一年忌だから当然だ。

しかしマスメディアがこれでもかこれでもかと圧倒的な映像と音声で迫ってくるのは勘弁して欲しい。
大阪大の菊池誠教授(キクマコさんの方が通りがいいだろう)は今日の午前のツイートで「BGMは不要。効果音も不要。不要というより邪魔」で批判していたが、全く同感である。必要以上に感情に訴えて刺激するので邪魔と言うより害悪ですらあるかもしれない。

反原発のデモなどというピントはずれの騒ぎをしている連中もいるようだ。自分勝手な正義感を振りかざす輩が被災地とは関係ないところに大量に湧いて出てきたのもこの一年だった。収まる気配はなさそうなのでこういうNoisy minorityはもう無視するしかない。もはや絆だの心を1つにだのがんばろう日本などといった言葉は空しいだけである。

心臓の手術の後の経過がよくなく、胸に水が貯まったのを除去して4日しか経過していない天皇陛下が恒例にも拘わらずお言葉を発せられたのには頭が下がる。これには感銘を受けた国民も多いはずだ。陛下のお気持ちに感謝しつつ、それぞれの立場で出来ることを今後も淡々とこなしていくことが肝要だし、それしかないのだろうと思う。

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2012年3月 2日 (金曜日)

お天気を伝える側の表現がおかしい

表現がおかしいというよりは、その根本にある捉え方がおかしいのかもしれない。

早いものでもう3月に入ったが、閏日の先月29日にかなりの降雪があった。

テレビのニュースや天気予報では「もう3月になろうとしているのに」という表現が多く聞かれたが、こちらの方が違和感がある。

気象庁のデータで東京の過去の3月の降雪合計を見てみると、2005年に2cm、2004年・2001年・1999年・1993年・1992年・1989年・1985年・1983年・1982年に0cm、1998年に6cm、1996年に0cm、1995年に2cm、1988年に1cm、1987年に5cm、1986年に10cm、1984年に3cmとなっている。(0cmは降雪があったが1cmに達していない)。なお、1988年は4月に9cmの積雪を1日記録している。1981年以前では1973年以降毎年3月に積雪が記録された。データによれば1960年代には4月でも東京に降雪が記録された年が複数ある。

1986年は春分の日に9cmの積雪があった。知り合いの結婚式の日(私は呼ばれていないが)だったので、「3月の大雪」として記憶している。

最近でこそ3月の降雪は少ないが、こうしてみれば3月の東京に雪が降ることはそれほどおかしいことではない。

いつ頃からだろうか、天気や季節というのは安定しているものという前提でマスメディアが情報を流すようになったように感じる。前にも述べたが、過去30年の平均値である平年値の「平年」という言葉が人を騙すのだ。

極端な例を言えば、30年間年平均気温が毎年15℃でも、1年おきに0℃と30℃を繰り返しても、年平均気温の平年値は15℃である。では、前者は安定した気象で後者は異常なのだろうか。人間の直感からすればそうだろうが、毎年同じ気温などというのは、それはそれで異常である。

つまり、毎年同じ気象条件などということはあり得ず、寧ろ毎年が「異常気象」の連続と言った方がよいと思うのである。前の年と違う気象条件だと特に異常だ、異常だと騒ぎやすい。似たようなことが過去にあっても人間は忘れる動物だから、今初めて異常に遭遇したような気になるのだろう。それはそれで生存のための本能なのかもしれないが。そして、安定した気象を前提にするから、「地球温暖化問題」でも過剰反応をしてしまうのだろう。

立春を迎えたのにまだ寒い、というような表現をするアナウンサーや芸能人もいる。

立春というのは寒さのピークなのだ。そこから徐々に暖かくなっていく。文字通りあくまで春のスタートであるから寒くて当然である。春という文字だけを見ているからおかしなことになる。公共の電波を使って天気ネタをしゃべるのであれば、一度旧暦や二十四節気あたりについて勉強してからにしてもらいたい。

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2011年8月11日 (木曜日)

またうんざりする季節がやってきた

暑いから、というのもあるけれど、前にも書いたように8月ジャーナリズムに辟易とさせられるからだ。
戦争に対する反省は必要だろう。しかし我々の世代が起こしたのではない。もはや歴史の中の出来事なのだ。自虐的な反省ではなく、歴史に学ぶ態度でよいではないか。

まあテレビは視聴率を取るために有効なのだろうし、新聞も惰性でやっていると考えれば納得はしたくはないが理解はできる(笑)。だからテレビの「戦争特番」は見ないし、新聞記事もほとんどスルーである。未来を考えるのに有用な情報はほとんど提供されず、単に過去を振り返って懺悔しているだけのコンテンツは要らない。

広島、長崎は、今年福島第一原子力発電所の事故があったので、反原発派、脱原発派が勢いづいている。
長崎市長の「原子力に変わる安全な自然エネルギーの開発を」というのは政治的メッセージではあっても、技術論やインフラ論としては現実的では全くないのだ。

広島は、去年までは秋葉市長が、これまた8月ジャーナリズムの権化のような言動を繰り返していてうんざりだったが、今年は広島県知事が、慰霊祭は原爆の被害者のためのもので、原子力発電所と絡めるのは政治利用だ、という趣旨の批判をした。これは大いに支持したい。政治家が大衆に阿って現実離れした夢ばかり語るようでは、それこそ「子供達に未来はない」のだ。

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2010年12月30日 (木曜日)

細かいことを言うと

1日の時間は約24時間と限られているので、twitterで発言しているとついついブログが疎かになる(笑)。年末くらい、少し記事をものして締めることにしよう。やはり書きやすいのは交通ネタである。

今月4日に新青森までの全線が開業したとうほぐすんかんせん(東北新幹線)だが、東京・新青森が3時間20分というのが喧伝されている。これはJR東日本のPRの成果だ(褒めているのではない)。

東京・新青森間は新車両のE5系で運行するはやぶさが開業時に間に合わず(2011年3月5日に登場する)、定期列車ははやて15往復(その他に仙台・新青森と盛岡・新青森が各1往復)の運行となるが、所要時間3時間20分なのは上野通過の上りはやて2号だけである。下りの最速列車は3時間23分、上りの2号を除く最速列車は3時間26分である。たいした違いではないかもしれないが、例外を普通のように語るのはどうかと思うのである。細かいことを気にするのが鉄なのである(反論もあるかもしれない(笑))。

はやぶさが登場すれば当初は最速で3時間10分程度なので、今度は東京・新青森3時間10分となるのだろう。そして最高時速320km運転になると3時間5分程度となる。ならばいっそのこと「ゆとり教育のおける円周率の扱い」ではないが、大雑把に約3時間でいいではないかと言いたくなる。2015年度に新函館まで延伸されれば最高時速360kmが実現して(現在最高260km/hに制限されている盛岡以北の速度制限が緩和されて)、東京・新青森間の所要時間は3時間を切るかもしれないし、その時にはもう青森はどうでもよくなって(笑)、東京・新函館(仮)4時間10分(これは当てずっほうの数字だが)などと騒ぎ出すのだろう。

ああ、それと、青函トンネル内での貨物列車とのすれ違い問題が解決しないと東京・新函館間は4時間30分くらいの所要時間になるかもしれない。

結論。停車駅の多いはやての東京・新青森間の所要時間は3時間33分〜37分なので、同区間の新幹線による所要時間は概ね3時間30分前後、というのが妥当な表記だと言えよう。いずれにしても青森県の人達には嬉しい出来事だろう。改めて祝・東北新幹線全線開業。

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2010年8月15日 (日曜日)

「8月ジャーナリズム」の欺瞞

8月になると大東亜戦争がらみの新聞記事やテレビ番組が多くなるのを「8月ジャーナリズム」というのだそうだ。NHKラジオ第一放送の「新聞を読んで」というコーナーで、実践女子大の飯田良明教授が、戦争の記憶を風化させないために、毎年新しい視点で8月ジャーナリズムを継続することが新聞の責務である、と語っていた。

今日は形式的な終戦の日である。国民の間に終戦記念日として定着しているので、一応重要な日であるとしてもよいだろう。しかし戦争がらみで重要な日は他にもあり、8月にそれが3つほど集中しているのが8月ジャーナリズムの源流だろう。3月10日もあるし6月23日もある。8月9日に関して言えば、この日がまるで長崎に原爆が落とされただけのように扱われる事が問題だ。ソ連対日参戦というもう1つの重大事があった。シベリア抑留や北方領土問題をはじめとするこれに端を発する死者の数やその後の社会への影響を考えれば、こちらにもっと光が当たってもよいと思う。

空襲に関して言えば3月10日の東京大空襲はその悲惨さや死者数から原爆投下とほぼ同等の扱いを受けているが、今年あたりはようやく地方都市の空襲にも地元の人たちの執念が実って目が向けられるようになったのは好ましいことだろう。広島への原爆投下の前日の8月5日には私の故郷の隣町である前橋市も空襲に見舞われている。

実際にポツダム宣言を受け入れて停戦したのは8月14日(15日は録音された昭和天皇のいわゆる玉音放送が流された日)だが、上記のソ連参戦で8月15日以降も北方では戦闘が継続し、南樺太や千島では死傷者が多く出た。これは北海道本島がソ連に占領されないための尊い犠牲であったので、我々はこれらの人々にもっと畏敬の念をもつべきだろう。

8月ジャーナリズムは客観的に大東亜戦争の姿に迫っているかといえば、およそほど遠いだろう。
戦争に対する反省の名の下に、自虐的な歴史観が展開され、戦前の日本は何でも悪であるかのような風潮が下敷きになっているからだ。そして韓国併合問題に代表されるように、平気で歴史をねじ曲げる嘘が罷り通っている。生存者へのインタビューは必要ではあるが、歳月の経過とともに事実からは遠ざかり、時間とともに醸成された感情が事実を覆い隠す。事件の解決に目撃証言だけでは過ちを犯すのと同じことだが、65年も経過すれば事実などほとんど消えてしまう。

8月ジャーナリズムの記事や番組が戦争体験者に与える影響も小さくないはずだ。そこで語られていることが自分自身の経験に何らかの影響を与え、針小棒大な語りになったり、必要以上に自責の念に駆られて過度に感情的に戦争体験を語ってしまうだろう。

実際、自分の小学生頃の記憶がどれだけ正確なものか考えてみればいい。戦時と平時は違うというだけでは記憶や目撃の曖昧さを否定する理由としては不十分だ。

要するに8月ジャーナリズムというのは、事実とは関係なく(全てが事実でないとは言わないが)、そこで語られたことが新たな擬似的戦争体験を呼び覚まし、8月ジャーナリズム自身の拡大再生産を招いているのである。そもそも戦意高揚に邁進し国民を煽った自らへの反省が8月ジャーナリズムにほとんど見られないのが、何よりの欺瞞なのだ。

戦争を反省し、悲惨な自体を招かないようにするためには、もっと死者の遺した記録も含めて文書記録に残っている事実を冷静かつ客観的に読み解き分析する必要がある。また、兵器の能力や兵力比較、暗号技術や情報収集、諜報活動、通信、兵站といった嫌われる部分ももっと科学的に語られる必要もある。巨艦主義に陥り航空機の重要性を軽んじた時代錯誤製への反省がもっと社会全体に広く認識されていれば、国際社会の動きを読み解きその変化に対応する力が備わり、今日のようなガラパゴス経済といわれる閉塞社会を招くこともなかっただろうと思う。高度成長に浮かれて日本の繁栄は未来永劫続くような錯覚に陥った官僚政治・自民党政治は、日露戦争の勝利に酔いしれその後の時流を見誤った旧日本軍とダブって見える。

8月ジャーナリズムを継続するなら、これまでのようにお涙頂戴の想い出語りや懺悔の声ではなく、ジャーナリズムの原典に立ち返って、客観的に事実に立脚した地道な戦争論を展開すべきである。それができないなら8月ジャーナリズムは「この報道は事実に基づいていますがフィクションです」とでも断り書きをしろ。

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2010年8月 9日 (月曜日)

広島・長崎は特別なのか

今日は長崎の原爆投下から65年目。小倉上空の天気が悪くてとばっちりをくった長崎の被爆者の方達や3日前に被爆した広島の方達に何の恨みもないけれど、どうして大東亜戦争が終わって65年も経つのに、広島・長崎だけが特別扱いなのだろうか。強いて言えばメディアの扱いが大きい戦災としては、これに沖縄戦と東京大空襲が加わるくらいである。

しかし65年前の今日は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連が対日参戦した日である。以前8月18日の占守島の戦いのことを記事にしたが、このソ連の参戦はその後の南樺太・千島の不法占拠(樺太での電話交換手の全員自決などもあった)や満洲占領、そして不法な日本兵のシベリア抑留へと繋がっていく、忘れてはならない歴史的な日なのだ。たまたま仕事で外出して靖国通りを歩いていたら、右翼の街宣車に出くわした。彼らの行動に賛同できる部分は殆どないが、節目にきちんと行動する点だけは評価してもよい。

私の岳父はシベリア抑留で辛酸をなめ無事に帰国したが若くして無くなった当時の仲間のことやソ連への恨みを死ぬまで語っていた。そして私の伯父(母の兄)もシベリア抑留を経験し、帰国したが体調を崩して間もなく20代半ばで夭逝した。この2人やシベリアの地で命を落とした多くの人達と原爆で無くなった人達の命に差はないはずであるが、メディアの扱いはそうではない。原爆投下というアメリカの不法行為を非難するのであれば、同じ程度にソ連の国際法違反も(継承国のロシアに対して)糾弾すべきなのだ。

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2010年8月 2日 (月曜日)

世間とずれているマスメディアの感覚

日テレの記者とカメラマンが秩父で遭難死した。死亡したこと自体には哀悼の意を表したいが、あまりにもその行動と会社の反応がおかしいので、例えばYahoo!掲示板などでは批判の嵐である。当然だろう。批判の内容の多くはもっともなのだ。

取材しようとした防災ヘリの墜落現場だが、そもそもその墜落自体が二次災害であり、当日は三次災害を防ぐため警察が入山しないよう警告していたのだ。しかも軽装(Tシャツとジャージだったという)だったため、ガイドが危険と判断して一旦入山口へ引き返した後、制止を振り切って再入山という。そして日テレサイドは有能な社員を失って残念、装備に問題はなかった、などと弁解している。

どうして現場のガイドが軽装で危険だと言っているのに、日テレは問題ないと断定できるのか。そして有能な社員がどうしてガイドを振り切って山に入ったのか、など考えられる疑問はほとんどネット上に出尽くしている。

ヘリの墜落の原因究明などは必要なことだが、それは警察や埼玉県、ヘリの所有会社など当局や当事者の仕事である。メディアは夏山に軽い気持ちで軽装でいくことの危険性こそ一般市民に伝えるべきである。そうでなくとも、近年中高年の安易な登山が批判を浴びている。ここのところ毎年のように中高年の登山初心者の遭難が伝えられるようになっている。

無謀な突撃取材など最早多くの視聴者は求めてなどいないだろう。メディアサイドからすれば成功した時には陶酔感に浸れるのだろうが、無謀さが有能さと同一視されるような体質が日本の報道機関にはあるのではないだろうか。悪い意味でのメディアスクラムで、ガイドが悪者にされないよう、事実関係がきちんと救命されることを臨むが、メディアの報道は身内・同業者に甘いからどこまで期待できることやら。

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2010年5月13日 (木曜日)

「誤訳事件の一種」にすぎないだけなのか

木語:宇宙人ルーピー=金子秀敏ウェブ魚拓

金子編集委員も「愚か」な1人なのだろうか。
鳩山総理が「愚かな人」だと多くの日本人が思っていたから、仮に誤訳だとして「ルーピー=愚か」という図式が広まったのである。それだけのことだ。

それから記事中に「まして鳩山首相が『愚直』と理解したのは間違いだ」とあるけれど、これは愚かという評価を回避するために、たまたま「愚」という共通の文字のある別の意味の言葉に巧妙にすり替えたのだ。

そもそも、決断力があって聡明でリーダーシップのある総理だったら、ルーピーなんて形容詞が海外でつけられる余地がないのだから、今回のよう「誤訳」も発生しなかったのだ。

誤訳事件の一種」などと軽く見たら、事の本質を見失う。

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2010年5月 7日 (金曜日)

特定の数値を鵜呑みにすると見えなくなるもの

普天間基地移設問題でメチャクチャなことをしでかし、ついて「身内」のはずの上杉隆にまで見放された鳩山総理と内閣。

普天間迷走で、鳩山首相と平野長官に「退場」を求める十分な理由

twitterでも言及したのだが、この記事中にある「日本の国土面積のわずか0.6%にすぎない沖縄県には、実に在日駐留米軍の75%の基地が集まっている」という文面、これはデータとして間違いではない。この75%という数値は広く出回っているようだ。しかし月刊誌WiLL6月号の山際澄夫氏の記事によると、これにはトリックがあって、自衛隊との共用基地(横須賀など)が含まれておらず、これらを含めると沖縄の比率は24.5%になるという。まあ米軍単独の基地が沖縄に過度に集中している証拠だと言われればそれはその通りかもしれないが。

しかし、議論をする上でもっと大切なことが欠落している。先日も東シナ海でのEEZを巡って、シナが(中華思想に基づいて当該海域を自らのEEZであると主張して)我が国海保に測量の中止を要求するという暴挙に出た。領土面積で世界60位の日本は、EEZ+領海+領土でみると4,857,193km²で世界9位(EEZ+領海では6位)という海洋大国である。陸地の面積だけ切り離しても意味がない。狭い国土に多くの人口がひしめいている島国という自虐的な領土感はいい加減に捨て去るべきだ。

日本の領海等概念図

この図をみると、ざっと1/6くらいが沖縄関連とみてよい。単純な面積比以上に、シナとの係争を抱える重要な海域を抱えているが、それは棚上げしてざっと我が国EEZの15%を沖縄が占めていると想定する。

「国土面積の0.6%しかない沖縄に米軍基地の75%が集中している」という命題は「日本の排他的領域の15%を抱える沖縄の米軍基地の比率は24.5%を占めている」という風に変化するのである。前述のような地政学的重要性を考えると、数値だけで考えればこれは妥当な水準ではないかと考えられる。

そして政治の役割は、歴史的な経緯を含めた沖縄の人達の感情を踏まえて、この数値がどれくらい下げられる可能性があるのか冷静かつ客観的に検討することだろう。

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2010年5月 5日 (水曜日)

いかれたメディアがいかれた総理を擁護する

「いかれた鳩山首相」は“誤訳”だった (ウェブ魚拓)

自民党が政権の座にあった時にはさんざんこき下ろし(まあ、そのとおりだ、と思ったこともけっこうあるけれどw)、民主党が政権についてからの酔い書、もといヨイショは酷いものだ。ここまで露骨だと気持ちがいいくらいであるが、同じレベルのバカどうしと思えば妙に納得がいくことも確かだ。

外交では時に重大な誤訳が発生するが、loopyはそんなレベルではない。
仮に「いかれた」と訳すのが不適切で「現実離れ」が正しい訳だとしても、政治は英文和訳の問題ではない。現実離れした奴が総理大臣であることは、十分に批判に値するくらい重大な問題である。

記事中には

「辞書だけを頼りに、記事の全体像や現地の様子を無視して英単語を訳すと間違えるといういい例です。このコラムの『loopy』は、『つかみどころのない』『訳の分からない』という意味で、小バカにしているところはありますが、悪意はありません。言語学の修士課程にいる友人にも確認しましたが、『現実離れしていて物事のとらえ方がずれていて、焦点が定まっていない、変なヤツ』というのが正解です」
とあるが、「現実離れしていて物事のとらえ方がずれていて、焦点が定まっていない、変なヤツ」なら、十分にいかれているしバカである。そんな人物を総理大臣にしたいなどと誰が思うだろうか。

言語学の専門家に尋ねて鬼の首でも取ったように誤訳だと囃し立てる日刊ゲンダイは、じゃあ英文メディアの文章をまともに和訳した記事でも掲載してみろ。

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