2012年1月 8日 (日曜日)

糞坊主の話

戒名というものについて実は常々考えている。要するに信心もなければお布施も修行もしてないのにいらねえんじゃねえか、ということである。戒名料が高ければ位が高くなるという法外な金がかかるのもバカバカしいし、その元になっている檀家制度という「江戸時代の負の遺産」にも疑問を持っている。

読者諸兄の中には僧職の方もいらっしゃるので、こういう本音を言うと、何か言われそうであるが、実は高校の倫理社会の授業を受けた頃からずっと思っていることなのである。

そういう小生の高祖父は曹洞宗の僧侶であった。その息子の私の曾祖父が母(私の高祖母)に早く死なれたために、跡を継ぐことがなくなり、しかも私の祖父も長男ではなかったので、跡を継ぐ運命にはなかったのだが、檀家の一員としては「宗教改革」をやってもよいのではないかと最近考えるようになった。実際にはド田舎の人間関係のどろどろしたところで、しかも東京に出てしまった私が仮に戻っても簡単ではないことは明らかなのだが、このあたりは父といずれは相談しなくてはならないかもしれない。

私の高祖父の跡を継いだ住職は長命で、私が小学生の頃まで存命であった。そのために子供の私にいろいろと話をしてくれる機会もあった。具体的な内容はほとんど覚えていないのだが、話しぶりや人格には子供ながらに感銘を受けたものである。その住職はご子息を戦争で亡くしたため、続けて血縁関係ではない人間が住職を継ぐことになった。

しかし皮肉なことに現在の住職はなんと私の従兄の同級生なのである。血縁ではないというものの世の中狭い。田舎は尚更である。白川晋爾という。

その住職が立派であれば文句はない。しかし金銭関係や女性関係などで若い頃からよくない噂が絶えなかった。ついには昨年10月に、自動車でたこ焼き屋に突っ込んで3人に重軽傷を負わせてしまった。酒は飲まないので酔っ払い運転ではないようだが、それならなおさら悪い。還暦過ぎた宗教人のやることではないだろう。

しかもである、突っ込んだたこ焼きやの名前が「タコボーズ」なのである。出来すぎている。悪い意味で。タコボーズのブログを見ると、怪我人を助けることもなくふんぞり返っていたようだ。まあ白川ならいつもふんぞり返っているからさもありなんである。情けないことだが。そもそも怪我人の手当てをしない時点で重ねて道路交通法に抵触している。

昨夏のお盆の時も、秋のお彼岸は体調が優れないために休業します、などと予告していたのである。何で1ヶ月も先の体調不良がわかるのか(笑)。

要するに、こんな奴に金を払って戒名などもらいたくないのである。自分で生前戒名を考えることにでもするか。何かいい考えはないものだろうか。

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2011年4月 8日 (金曜日)

酒と桜

今日は4月8日、お釈迦様の誕生日と言われる花祭りの日である。

数日前まで寒さもあり、震災もってすっかり季節感がなくなってしまったが、ようやく春である。春の交通安全運動らしいのだが、こちらも例年と違って交通安全協会のテントが張られておらず、警察署近くで景観がテッシュを配っていた。

花見はしなかったが、震災の被災地の1つでもある茨城県日立市の「大観」という酒を買ってきて飲んでみた。高い酒ではないがまあまあかな。癖がなくてすっきりしている、といっても普段日本酒はあまり飲まないので実は味はよくわからんのだけど。今年はこの後、福島や宮城あたりの酒も試してみようと思う。

今日の東京は風が強く、桜の花びらが既に舞い始めた。週末はお天気が悪そうだ。

写真は一昨日撮影した職場近くのある公共施設の敷地で咲いていた桜である。110408_220801


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2010年1月17日 (日曜日)

「使って欲しくない」言葉について考えてみる

今日は兵庫県南部地震(災害名は阪神・淡路大震災)の15年目に当たる日である。

その今日、民主党の逢坂誠二代議士がTwitterで「亡くなった方の冥福を祈る」と「つぶやいた」ので、「浄土真宗の信者の方もいるかもしれないからまずいのでは」とレスしたところ、迅速に訂正のメッセージが出た。さすが地方自治体の首長経験者である。ここいらの対応は素早いし、他人の諫言も受け入れる度量がある。

そしたら、けっこう反響があった模様で、Twitterのフォロワーの数が増えた(笑)。
知らなかったという人もいて、やはりきちんとした宗教教育は必要だな、と実感した次第。私も学校で習ったわけではなく、社会に出てから学んだのだけれど。もちろん真宗だけでなく仏教以外の宗教に配慮する必要もある。

ちなみに真宗は信者ではなく門徒では、という指摘も私に対してあったので、これは素直に訂正した。もちろん門徒というのは広い意味で信者なので間違いではないが、真宗の場合慣習的に門徒という言葉を使うようだ。

中には慣用表現なんだからいいではないか、とか、形式よりも気持ちだ、という反論もあった。気持ちを示すには形式を重視しないとダメなこともあるのだが。それから実際に真宗の方から、「冥福を祈る」は使って欲しくない(特にメディアから)という反応もあった。一方実家が真宗だけれど「冥福を祈る」と言っていた、というのもあった。これはその家がどれだけ熱心な真宗門徒かどうかによるのだろう。

また「冥福は祈るものではない」という主張もあった。これは「冥」という言葉をめぐる本質的な問題点を指摘した意見であるが、ここでは深入りしない。

ともかく、当事者から使って欲しくない、というのだから、やはり政治家やマスメディアが不特定多数の死者に向かって「冥福を祈る」は使うべきではないだろう。例えば「哀悼の意を表する」といった無難な代替表現もあるのだ。

言葉狩りをするつもりはないので、この言葉を発する対象者が「冥福を祈る」を許容する場合は問題ない。

言葉狩りと言えば、私はいわゆる差別語に対する言葉狩りを批判する立場ゆえ、ダブルスタンダードではないかと批判される可能性があるので、この点についても考えを示しておく。いわゆる差別語も「当事者が使って欲しくない」言葉のカテゴリーに属するからだ。

「冥福を祈る」との決定的な違いは、こちらは宗教がらみであり、日本を含む近代国民国家の多くでは基本的に信教の自由が認められていることだ。真宗を弾圧することはできないし、その真宗の門徒が受け入れない言葉を彼らに対して使うべきではない。しかし、この言葉自体は忌み言葉でも何でもない。状況によって使用する自由がある。

一方、いわゆる障碍に関わる差別語は、当事者がその場にいないとしても、その言葉を嫌う人がいる可能性が多いので、状況によって使用する自由があるとは言えない。実際、私も「盲」「聾」といった言葉を口にすることはないし、すべきだとも思わない。

しかし、盲判とか聾桟敷といった言葉は差別の意図がない成句(慣用表現)であり、使用を制限することは言語文化に関わる問題であると思うので、これらの言葉狩りには反対なのだ。ましてや片手落ち(片・手落ち)を片手・落ちと曲解して糾弾するような思想には全く同意できない。こういう過剰反応は障碍者当事者よりも周辺の人たちによることが多いように見える。

要するに「視覚障碍者」に対して「盲」と罵ることはいけないが、彼らとはなんの関係もない状況で、何も考えずに書類に目をまともに通すこともなく機械的に判子をつく行為を客観的に「盲判をつく」と表現することまで規制すべきではない、ということだ。

「知恵遅れ」や「精神薄弱」が差別語とされ「知的障害」と言い換えられて久しいが、いまや人々の本音の部分ではこれを省略した「知障」が差別語らしき用法をされているのだ。これを言い換えればまた新しい言葉が差別語として変容していくことだろう。「障害」を「障がい」などと書き換えたところで、それは似非正義感の自己満足にすぎない。英語圏でchallengedなどという表現が使われているのも同様だろう。障碍に対しての言葉狩りは、人間の本質からして、問題の解決にならないことが明らかなのだ。

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2009年11月23日 (月曜日)

欧米の現代キリスト教は本当に一神教なのか?

現代キリスト教って十把一絡げの書き方はよくないけれど、とりあえず見逃して(笑)。

サッカーW杯南ア大会の欧州予選プレーオフのフランス・アイルランド第2戦でのフランス代表FWティエリ・アンリのハンドが波紋を呼んでいる。政治・外交面でもだ。

しかしFIFAはアイルランドの再試合要求を却下したし、そもそも主審が見逃してしまった以上判定や試合結果は覆らないのがサッカーである。アイルランドは本戦出場に値するチームだと思うが、それを言っても仕方がない。次回大会に出場できるよう、頑張ってもらうしかないだろう。その前にEURO2012か。

さて、マラドーナに続き杏アンリも「神の手」と言われてしまったが、恐らくムスリムはこの表現に反発するだろうな。マラドーナもアンリもアッ・ラーではないからだ。仮に本当の神が彼らの手を動かしたのだ、と主張しても、神は間違ったことはしないから、説得力はない。イスラームは偶像信仰を一切否定している(バーミヤーンのように他宗教の偶像まで破壊するのはどうかと思うけどね)。

その点ローマ帝国が国教として以降のキリスト教は偶像崇拝を容認しているから「神の手」なる表現が出てきて、さらにそれをスポーツ選手の行為にまで当てはめてしまうのだろう。日本人にはわかりやすいけどね(笑)。

一見何気ない喩えの表現に、フェアプレーに反する行為の容認とユルユルの宗教観が見え隠れする。実に現代的な現象だと思う。

もしも南アの本大会でフランスと対戦したチームがハンドがらみで決勝点を挙げて、それが原因でフランスがグループリーグ敗退となったら、因果応報である。日本代表がそんな役回りにならないことを願うばかりである。

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2009年11月17日 (火曜日)

デタラメな小沢一郎に文明論や宗教論を語る資格なし

小沢氏「君は何教だ」 キリスト教発言への質問に逆ギレウェブ魚拓

記者に痛いところを突っ込まれて逆ギレ、質問返しというのは、自民党の権力者に見られたパターンだ。この点、自民党田中派の血を引く小沢は、このパターンもよく受け継いでいる。この点では全く「政権交代」していない。

それにしても記事中にある、デタラメな発言。

 小沢氏は「煩悩を生きながらにして超越できる人が生き仏。お釈迦様が最初の人だ」と力説した上で「死にゃあ煩悩がなくなるから仏様。君んとこも仏様あるだろ? ほかの宗教で、みんな神様になれるとこあるか」と問いかけた。

そうではない。苦行を経ずに解脱した最初がゴータマ・シッダールタであって、人類史上初の解脱者ではないし、そもそも「釈迦」というのは固有名詞ではない。シャカムニは「解脱した人」釈迦牟尼は「釈迦族の聖者」という意味である(「解脱した人」は仏陀でした。訂正します)。

それからそんなに釈迦のことをいうなら、日本の仏教はそもそもそこからは大きく逸脱した別物である。そこまで言わないとしても、死ねば仏様ってのは浄土宗や浄土真宗ぢゃねえかよ。本来の仏教は解脱しないまま死ねば輪廻転生に入るんだぞ。小沢なんかさしずめ畜生界か餓鬼界あたりに生まれ変わるだろう。いや、修羅界が最もふさわしい(笑)。

神道は死ねば神様だ。仏教に死ねばみな神様などという発想はない。仏様と神様を混同しているところなど日本的である。

選挙は得意かもしれないが、教養はないな、この男。
そして権力者のこんな暴走を誰も諫められない民主党もどうかしている。

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2009年9月28日 (月曜日)

「友愛」という概念について

鳩山総理の思想の根底には「友愛」があるようだが、この元になった英語はfraternityである。

これは兄弟を意味する英語のbrother、独語のbruder、仏語のfrère、伊語のfratelloなどと語源が同じなので、私はどちらかというと「義兄弟の契り」ってのが(普遍的な用語ないし政治用語として適切かどうかは別として)日本語訳としてわかりやすいのではないかと考えている。

なにやら時代劇みたいだが、だれでも彼でも仲良くしよう、愛情を注ごうというのではなく、人生観や世界観を共有できる人同士の相互扶助みたいなものがfraternityの根底にあるのではないだろうか。

そう考えると、外交面ではともかく、恐らく内政では最大の支持母体である連合を中心とした労組が「友愛」の最優先の対象となるのでないかと予想される。実際総選挙直後に最初に鳩山氏が会談したのは連合の会長だった。

フランス革命の時のスローガンとされる(そうでない説もあるようだが)、liberté, egalité, paternité は自由・平等・博愛と訳されるが、この最後の博愛も「誤訳」ではないかと言われている。

こちらは父を意味する英語のfather、独語のvater、仏語のpère、伊語のpadreなどと語源が同じである。直訳すれば父性愛(笑)?

こうなると、現在のキリスト教の「父」には三位一体の父のニュアンスも含まれるだろうから、日本人には本質的にわかりにくい概念なのではないかなあ。いや、「父である神の愛」だけでなく、自由や平等も神の国でのものかもしれない。(革命という)テロ活動やっても最後の審判で救われて神の国に行ける、というアジテーションに使われたかもしれない。

と、ここまで書いて、だとすると念仏唱えていれば極楽浄土に往生できる、という浄土真宗と通底するものがあるのでないかという考えが頭をよぎった。paternité は「阿弥陀仏の衆生救済」なのかもしれない(^_^;)。

ちと脱線しました(笑)。

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2009年7月13日 (月曜日)

学会員の生活を守り抜く政党

東京都議会議員選挙は、予想通り民主党が第1党になった。といっても単独過半数ではないのでインパクトは今ひとつだと思うが、とにもかくにも自民党が大敗したので、メディアは大騒ぎである。しかし、これは予定調和というものだろう。

そんなことより公明党は候補者23人が全員当選である。こんな憲法違反の政党が存在しているだけでもおかしいのに、国政と首都で与党なのである。いつものことだが、不愉快な存在ではあっても一応合法的な政党である共産党がボロ負けを繰り返すのとは対照的だ。

この政党は都民や国民の代表ではない。創価学会員の代表でしかない。もっとも非会員でも「弱者」と称する属性の人たちへのばらまきをありがたがる層にとっても代表なのかもしれないが。MXテレビの中継を見ていたが、公明党の全員当選に話が及ぶと、出演者達の口も一転して重く、歯切れが悪くなっていた。やはり学会批判はメディアにはタブーなのだろうな。

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2009年2月21日 (土曜日)

日本の恥さらし

中川前財務相、バチカンでも騒動=G7後、博物館で柵越え警報 (ウェブ魚拓はこちら)

情けない。なんでこんな奴が国権の最高機関たる立法府の議員で、しかも現職の大臣(それも主要閣僚ポスト)在職中にこんなことをするのか。当該選挙区の有権者には是非次の総選挙で叩き落としてもらいたいが、どこまで可能性があることやら。

「会見でのもうろうとした状態が続いていたとみられる」というのなら、外に連れ出すなよ。

こんな不良政治家も「お友達」として制御できないような総理大臣に何ができるというのだろうか。
麻生太郎を擁護する声もいろいろとあるようだが、やはり統治能力が欠如しているとしか言えないのではないだろうか。

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2008年8月13日 (水曜日)

こういうのはいかが?

勝ったら喜びを表して「五体投地」、負けても悔しさを表して「五体投地」。
これ北京五輪でチベット問題に対する抗議を示すのに最適だと思うが(笑)。
Free TibetなんてTシャツ着たり旗降らなくてもいい。観客もやろうぜ!
ここはチベット仏教に対する冒涜なんて突っ込みは無しで(^_^;)。

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2008年8月 9日 (土曜日)

新報なのか信奉なのか

東大新報というところから電話がかかってきた。学生が作っている旬刊の新聞だそうで、着信の電話番号みたら駒場キャンパスが本拠らしい。女子学生らしい若い女の子の声で「●●●●(私の本名)先輩はいらっしゃいますか」と切り出してきた。

36年前に創刊というから、私が入学したときには既にあったことになる。聞いたことねえな、と思いつつ、用件はわかっていたけれど(新聞読んでくれ、というセールスにほぼ決まっている)、まずはわざと「東大新聞とは違うのか」という一番多く発せられるであろう質問をしてみた(笑)。これは例えば澤藤統一郎氏のブログの2007年1月の記事にも見られる。

当然のように「違います」という答えが返ってくる。
電話セールスにありがちなグダグダトークが始まったので、手短に用件を、と言ったところ賛助を求めてきた。断ったのに、しつこく食い下がってくるから、しかたなく数秒の無言の後にこちらから電話を切った。本当は澤藤氏のようなやりとりをしてもよかったのだが、まあ女の子を虐めるのは本意じゃないから(笑)。個人情報保護法云々も、それ以前に私の個人情報なんて完全に抜かれているからね(^_^;)。

実は、ずっと前に一度うかつにも名刺広告を出してしまったことがあるのだが、あれはダメだ。一度出すとカモだと認定される。しばらく勧誘の電話がしつこかった。以来どんなことがあっても、同窓会や県人会つながりを語って賛助広告を勧誘してくるのは一切断っている。

でもって調べてみたら、東大新報って統一協会、原理研なのね。実は私が駒場の一年生の時にも、同じクラスで1人原理研に入って、あまり授業に顔を出さなくなってしまったのがいた。

ご子息・ご令嬢を自宅通学でなく、下宿生活させて大学に通わせているご父兄の方々。特に今年入学させたご家庭。こういうのは要注意である。今夏休みで数ヶ月ぶりに再会というお宅もあると思うが、何か様子がおかしかったら、この手の新興宗教も疑ってみる必要がある。

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