2013年7月 1日 (月曜日)

月(天体じゃなくて暦)の名前

全く予定も予算もないのだが、一度極東ロシアに行ってみたいなあ、と思うようになった。昨年のNHK教育テレビのロシア語講座でシベリア4都市紀行というのをやっていて(再放送だけど)、テキストを購入して録画したのを今になって少しずつ見ている。一方で今年の新作サンクトペテルブルク編も閉講して視聴中。

ということで、少しロシア語に馴染んできたのだが、月の名前は全て英語やフランス語などと同じ語源である。例えば7月は英語のJuly、フランス語のJuilletに対してロシア語はйюль。欧州の主要言語はだいたいこのパターンであろう。

要するに面白くはないのである。日本語の1月、2月…、に比べればましとも言えるが、9月から12月は7〜10の数詞がベースだからやはり似たようなもの(笑)。

さて、その日本語には睦月、如月、弥生、卯月…師走という旧暦の月の呼称があり、こちらは風土や文化とも関連した独自の呼称である。

フィンランド語の月の呼称がやはりtammikuu,helmikuu,maaliskuu,huhtikuu,…,joulukuuといった呼称で、意味のある名詞(原義が不明のものもあるが)+月(kuu)で日本の旧暦の呼称と同類であるようだ。

面白いのは、ロシア語と同じスラブ系の言語のチェコ語(と言ってもロシア語は東スラブ、チェコ語は西スラブで「遠い親戚」だが)である。曜日の名前はロシア語とチェコ語で語源が共通していると思われるものが多いのに対して、月の名前に関してはチェコ語は独自なのである。1月はledenといい、これは氷が語源のようだ。以降12月まで全て同様。6月から8月もローマ皇帝由来の言葉ではないのだ。

11月はlistpadというが、これは葉が落ちるという意味らしい。日本語では旧暦8月が葉月だが、こちらも季節的には葉の落ちる時期である。同じような発想だが時期が違うのが気候の違いを繁栄しているといえよう。

だから何だという一種のトリビアであるが、いろいろな外国語をかじるとこういう比較が出来て、外国の歴史や文化の一端が垣間見られるようで面白い。

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2011年4月24日 (日曜日)

崩壊しかけている進歩と安全の神話(翻訳素案)

ツイッター上で見つけたフランス語の文章(ドイツ人社会学者の論考をフランス人が翻訳したものと思われます)を日本語訳してみました。原文はこちらです。

社会学は専門ではありませんし、ざっと訳しただけで(疲れたのでw)校正チェックをしておらず、おかしな部分も多々あろうかと思いますが、速報性を重視してとりあえず掲載します。誤訳や修正などの指摘があればコメント欄にお願いします。

なお、自分自身の勉強の意味も含めて訳しているので、記述内容自体に関しての責任は負いかねますし、私個人は必ずしも書いてある趣旨に賛同している訳ではないことをお断りしておきます。

崩壊しかけている進歩と安全の神話
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2011.3.25

ウルリヒ・ベック(ドイツ人社会学者)Ulrich Beck
フランス語訳 クリスティアン・ブーシャンドーム Christian Bouchindomme
日本語素約 @florestan854

グローバル社会のリスクを語ることは、時代の中心には一見しただけではわかりにくい進歩というものがあって絶えず社会的な論争を引き起こすような現代について語ることだ。
最大のリスクが訪れることは、個人にとっては預かりしらないことであった。そうではなくて、なにか事件が起きる度に政治が牽引力として利用するのである。核のリスク、気候変動、財政リスク、9.11等。私は25年前、チェルノブイリが起きる前に既にそうしたシナリオのことを述べていたのだ。

過去の工業化社会のリスクと異なり、今日のリスクには地理的、時間的、社会的に際限がない。因果関係という観点からは、失敗や責任を誰かのせいにできる規則は1つもない。賠償も保証もできないのである。民間の保険では守れない場合−原子力エネルギーや最新の遺伝子工学が該当する−定量化可能なリスクと定量化不可能な危険の境界はとめどなく曖昧である。工業製品の危険は外部経済化され、法によって個別化され、技術によって適正化され、政治によって最小化される。端的に言うと、潜在的に自己崩壊が進行する可能性のあるものに対して「合理的」な制御を確実にしようとする規制の仕組みは、ジャンボジェットの上で自転車を規制する程度の価値しかないのである。

だが、福島とチェルノブイリを区別する必要はないのだろうか。日本で起きていることは実は自然の大災害でありその破壊能力は人が決めた結果ではなく、地震と津波のせいなのである。

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2010年5月19日 (水曜日)

公用語について考えてみる

157年前の黒船ショックがよほど大きかったようで、日本人の欧米コンプレックスは払拭しがたく、何かあると頭をもたげるようだ。最近は英語の公用語化の主張が聞こえてくる。

どうやらグローバル経済の中での「敗戦」がその背景のようで、日本経済の「ガラパゴス化」という言葉も好んで使われる。もちろん自虐的に。本来のガラパゴス島は、その隔絶された環境から、独自の生態系が成立した珍しくてよい例のはずなのだが。

私はまだ生まれていなかったが大東亜戦争の敗北後も、志賀直哉によるフランス語公用語化の主張などがあったが、この度は物理的戦争で敗北ではないものの、心理的には類似の状況なのだろう。

日本国において日本語の他に英語を公用語にするということは、公文書類や貨幣、標識などは全て2カ国語表記、教育も2カ国語で実施(英語で教育する教育機関が必要)など、公的機関での負担増となる。そこまで考えて言っているとはとても思えない。EUではその膨大な負担にもかかわらず、一部の例外を除いて加盟国の言語のほとんどが域内の公用語扱いであり、公式文書は各言語に翻訳される。

一方、ヨーロッパ大陸で公用語を英語と定めた国はない。ヨーロッパ全体でも英国とアイルランドだけである。以前オランダに行った時、スキポール空港の主要な表示がオランダ語だけなのには最初面食らった。字面は英語と似ているから慣れればいいんだけれど(笑)。英国から大陸に移動した時も、大陸に着いたとたん英語が目の前から消えた。しかし、ヨーロッパでは英語は普通に通用する。英語の出来ない人、あまりうまくない人、話せるのに話せないフランス人などがいるが、英語が出来れば旅行程度なら不自由はない。

日本だってそれと同じでいいじゃないか。公式言語は日本語だけだが、英語が広く通用する国。
例えば海外進出する企業経営者だって、絶対に自分で英語が出来なければいけない、ということはないだろう。有能な通訳をつれて行けばいいのだ。いざとなればあれは誤訳だったと言い張って自分のペースに持ち込める利点もある(かもしれない)。ビジネスで大切なのは英語力の前に、交渉力や企画力であり、相手国の文化や歴史に対する理解である。いくら英語に堪能でも、相手のペースに嵌ってまともな交渉が出来ないのでは本末転倒だ。TOEICの高得点者に仕事で使えないのがいる、という話も聞く。もちろん一人で全ての能力を備えていればそれにこしたことはない。そういう人材を育てることも必要だろうが、それが自己目的ではない。

英米の植民地だったり歴史的に英語のネイティブスピーカーが多数暮らしている訳でもないのに(今は実質的にアメリカの属国だ、という主張はとりあえず棚上げw)、英語を公用語にしている国などない。

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2010年5月13日 (木曜日)

「誤訳事件の一種」にすぎないだけなのか

木語:宇宙人ルーピー=金子秀敏ウェブ魚拓

金子編集委員も「愚か」な1人なのだろうか。
鳩山総理が「愚かな人」だと多くの日本人が思っていたから、仮に誤訳だとして「ルーピー=愚か」という図式が広まったのである。それだけのことだ。

それから記事中に「まして鳩山首相が『愚直』と理解したのは間違いだ」とあるけれど、これは愚かという評価を回避するために、たまたま「愚」という共通の文字のある別の意味の言葉に巧妙にすり替えたのだ。

そもそも、決断力があって聡明でリーダーシップのある総理だったら、ルーピーなんて形容詞が海外でつけられる余地がないのだから、今回のよう「誤訳」も発生しなかったのだ。

誤訳事件の一種」などと軽く見たら、事の本質を見失う。

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2010年5月 5日 (水曜日)

いかれたメディアがいかれた総理を擁護する

「いかれた鳩山首相」は“誤訳”だった (ウェブ魚拓)

自民党が政権の座にあった時にはさんざんこき下ろし(まあ、そのとおりだ、と思ったこともけっこうあるけれどw)、民主党が政権についてからの酔い書、もといヨイショは酷いものだ。ここまで露骨だと気持ちがいいくらいであるが、同じレベルのバカどうしと思えば妙に納得がいくことも確かだ。

外交では時に重大な誤訳が発生するが、loopyはそんなレベルではない。
仮に「いかれた」と訳すのが不適切で「現実離れ」が正しい訳だとしても、政治は英文和訳の問題ではない。現実離れした奴が総理大臣であることは、十分に批判に値するくらい重大な問題である。

記事中には

「辞書だけを頼りに、記事の全体像や現地の様子を無視して英単語を訳すと間違えるといういい例です。このコラムの『loopy』は、『つかみどころのない』『訳の分からない』という意味で、小バカにしているところはありますが、悪意はありません。言語学の修士課程にいる友人にも確認しましたが、『現実離れしていて物事のとらえ方がずれていて、焦点が定まっていない、変なヤツ』というのが正解です」
とあるが、「現実離れしていて物事のとらえ方がずれていて、焦点が定まっていない、変なヤツ」なら、十分にいかれているしバカである。そんな人物を総理大臣にしたいなどと誰が思うだろうか。

言語学の専門家に尋ねて鬼の首でも取ったように誤訳だと囃し立てる日刊ゲンダイは、じゃあ英文メディアの文章をまともに和訳した記事でも掲載してみろ。

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2010年3月25日 (木曜日)

予想通りだ(笑)

上野樹里 仏語でCM出演!?ウェブ魚拓

フランス語なのにどうして「スウィート」なんだよ、とまず突っ込んでおいて、と。

>オンエア中の「ジャポ〜ン」篇での上野
Japonは日本人がやりがちな間違った発音だろうなとwktkしてYouTubeを検索したら、期待通りだった。
いいなCM アサヒビール チューハイ 果実の瞬間 上野樹里(リンク先が削除された場合にはご容赦を)

[ʒapō]であるべきところが{dʒapom]になっていた。最後の美母音が口を閉じるmの音になってしまっているのは愛嬌としても、摩擦音のʒは日本人の苦手な発音。Bonjourのjの音でもしばしばミスをする。日本人以外でもこの音がない言語が母国語の人は同様のミスをするのだろう。フランス人にはどう聞こえるんだろうか。わかってくれるとは思うけれど。

ところで「コクサンカジュウ」はどう書くんだろうか。
coq sans cas jeu かな(^_^;)。「ゲーム箱のない鶏」なんのこっちゃ(^_^;)。

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2010年2月17日 (水曜日)

なんだこの差別剥き出しの調査は

世界一ロマンチックでない「I love you」は日本語ウェブ魚拓

上位の言語は全部ロマンス語(フランス語、イタリア語、スペイン語)なんだから、ロマンティックなのは当たり前じゃないか。くだらない。ロマンティック街道ってのは「ローマに通ずる道」のことだ。

だいたい、我々日本人は「私はあなたを愛します」なんて言わないぜ。この調査はヨーロッパの言語しか知らない奴らが実施したに違いない。辺境の地、英国のローマ・コンプレックスじゃないのかな。

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2010年2月13日 (土曜日)

「オリンピックを楽しむ」について考えてみる

今、家族が録画したヴァンクーヴァー五輪の開会式の模様が再生されていて、その音声をちょこっと聞いたら、荒川静香が「楽しむ」という言葉を使って選手心理についてしゃべっているようだ。開会式には関心ないのでちゃんと見ていないのだが、それはともかく。

私の記憶では「五輪を楽しむ」という表現を最初に使ったのは、アトランタ五輪の時の期待を裏切ってレースに惨敗した水泳自由形の千葉すずである。あの時は、税金使って派遣されながら、成果を上げられないのに、楽しめてよかったとは何事だ、という非難が殺到したものだ。

あの頃の千葉はかなりの期待を背負って重圧に負けたのだと思う。それを払拭しようとしたのかもしれないが、試合直後のテレビに映る場面での発言としては不適切だったと言える。

似たようなことを考える人はやはりいるもので、playという単語をキーワードに考察したウェブページがある。
私は、千葉すずさんよりも、古橋氏を支持します
これはアトランタの4年後のシドニー五輪の選手選考に関連して西暦2000年に書かれたものだ。もう10年近く経過している。

playという単語は「遊ぶ」と訳されることもあるし、「楽しむ」という日本語には「勝負事に真剣に取り組む」のではなく「結果を重視せずにリラックスして取り組む」というニュアンスがあり、いわば仕事と遊びの対比における後者のようなニュアンスで捉えられることが多いと思う。真剣勝負、武士道をスポーツに求める日本人にとっては、不似合いな言葉なのだ。だから非難の対象になった。

しかし、上記ウェブページでも言及しているが、その後各種のプロスポーツの選手達もこの言葉を使うようになり、皆慣れてきたということもあるし、プレッシャーによる過度な緊張ではかえって実力を発揮できず、適度にリラックスした方がよい、という考えが一般的になったこともあるのだと思う。

私はちょっと違った考えを持っている。千葉本人に直接確かめたわけではなく推測だが、アメリカ永住権ももっているらしい彼女の頭には、enjoyという単語があったのでないか、ということである。この単語こそ「楽しむ」と訳されることが多い。もっとも予選落ちという結果には本人は不満足だったはずで、楽しくなんかなかっただろう。ふがいない自分に対して、せめて「楽しんだからいいのだ」とでも言い聞かせなければやりきれない気持ちだったのではないだろうか。

この単語は、joy(喜び)という要素を含んでおり、enという接頭辞がついているから「喜びをもたらす」と「直訳」すれば原義に近いニュアンスが表現できるだろう。英語の使用時における他動詞enjoyの目的語の多様さを考えると、この単語を単純に「楽しむ」という日本語に置き換えたのでは、ニュアンスは正確に伝わらない。その都度適切な訳語(修飾語による補足説明も含めて)を見つけなくてはならない。一流のスポーツや音楽などで使われた場合、むしろ「満喫する」と言った方がよいのではないかと考えるのである。

頭にあったのがplayにせよenjoyにせよ、あるいは他の言葉にせよ、やはり「楽しむ」は日本語としては適切な言葉とは言えないと思う。頭が固いと言われそうだが、私には今でも違和感がある。今も荒川静香の「上村選手は楽しんで実力を発揮して欲しい」と言っていたのが耳障りだ。

もちろん、選手達には過度に緊張することなく実力を発揮してもらいたいし、その結果自身も見ている我々も楽しければ言うことはない。そして、仮に思うような結果が残せなくても「楽しんだからよい」という言い訳はして欲しくない。それでは次なる成長につながらないし、国の代表たる者が言い訳をしているという悪影響をもたらす。選手達にとって楽しむのはオリンピック競技の結果であって目的ではない。

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2010年1月28日 (木曜日)

二重の意味で「うーむ」

横のすき間がわずか6cmしかない車庫に駐車、さらに誰にもマネできないような方法で車から家の中に入る動画ウェブ魚拓

記事ではドイツって書いてあるけれど、どう見ても画面キャプチャーに出ているのはオランダ語。それともオランダ語そっくりの低地ドイツ語なのかな。(というか、オランダ語は低地ドイツ語の一種だけれど)

それにしてもこの爺さん、よくやるな(笑)。

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2010年1月17日 (日曜日)

「使って欲しくない」言葉について考えてみる

今日は兵庫県南部地震(災害名は阪神・淡路大震災)の15年目に当たる日である。

その今日、民主党の逢坂誠二代議士がTwitterで「亡くなった方の冥福を祈る」と「つぶやいた」ので、「浄土真宗の信者の方もいるかもしれないからまずいのでは」とレスしたところ、迅速に訂正のメッセージが出た。さすが地方自治体の首長経験者である。ここいらの対応は素早いし、他人の諫言も受け入れる度量がある。

そしたら、けっこう反響があった模様で、Twitterのフォロワーの数が増えた(笑)。
知らなかったという人もいて、やはりきちんとした宗教教育は必要だな、と実感した次第。私も学校で習ったわけではなく、社会に出てから学んだのだけれど。もちろん真宗だけでなく仏教以外の宗教に配慮する必要もある。

ちなみに真宗は信者ではなく門徒では、という指摘も私に対してあったので、これは素直に訂正した。もちろん門徒というのは広い意味で信者なので間違いではないが、真宗の場合慣習的に門徒という言葉を使うようだ。

中には慣用表現なんだからいいではないか、とか、形式よりも気持ちだ、という反論もあった。気持ちを示すには形式を重視しないとダメなこともあるのだが。それから実際に真宗の方から、「冥福を祈る」は使って欲しくない(特にメディアから)という反応もあった。一方実家が真宗だけれど「冥福を祈る」と言っていた、というのもあった。これはその家がどれだけ熱心な真宗門徒かどうかによるのだろう。

また「冥福は祈るものではない」という主張もあった。これは「冥」という言葉をめぐる本質的な問題点を指摘した意見であるが、ここでは深入りしない。

ともかく、当事者から使って欲しくない、というのだから、やはり政治家やマスメディアが不特定多数の死者に向かって「冥福を祈る」は使うべきではないだろう。例えば「哀悼の意を表する」といった無難な代替表現もあるのだ。

言葉狩りをするつもりはないので、この言葉を発する対象者が「冥福を祈る」を許容する場合は問題ない。

言葉狩りと言えば、私はいわゆる差別語に対する言葉狩りを批判する立場ゆえ、ダブルスタンダードではないかと批判される可能性があるので、この点についても考えを示しておく。いわゆる差別語も「当事者が使って欲しくない」言葉のカテゴリーに属するからだ。

「冥福を祈る」との決定的な違いは、こちらは宗教がらみであり、日本を含む近代国民国家の多くでは基本的に信教の自由が認められていることだ。真宗を弾圧することはできないし、その真宗の門徒が受け入れない言葉を彼らに対して使うべきではない。しかし、この言葉自体は忌み言葉でも何でもない。状況によって使用する自由がある。

一方、いわゆる障碍に関わる差別語は、当事者がその場にいないとしても、その言葉を嫌う人がいる可能性が多いので、状況によって使用する自由があるとは言えない。実際、私も「盲」「聾」といった言葉を口にすることはないし、すべきだとも思わない。

しかし、盲判とか聾桟敷といった言葉は差別の意図がない成句(慣用表現)であり、使用を制限することは言語文化に関わる問題であると思うので、これらの言葉狩りには反対なのだ。ましてや片手落ち(片・手落ち)を片手・落ちと曲解して糾弾するような思想には全く同意できない。こういう過剰反応は障碍者当事者よりも周辺の人たちによることが多いように見える。

要するに「視覚障碍者」に対して「盲」と罵ることはいけないが、彼らとはなんの関係もない状況で、何も考えずに書類に目をまともに通すこともなく機械的に判子をつく行為を客観的に「盲判をつく」と表現することまで規制すべきではない、ということだ。

「知恵遅れ」や「精神薄弱」が差別語とされ「知的障害」と言い換えられて久しいが、いまや人々の本音の部分ではこれを省略した「知障」が差別語らしき用法をされているのだ。これを言い換えればまた新しい言葉が差別語として変容していくことだろう。「障害」を「障がい」などと書き換えたところで、それは似非正義感の自己満足にすぎない。英語圏でchallengedなどという表現が使われているのも同様だろう。障碍に対しての言葉狩りは、人間の本質からして、問題の解決にならないことが明らかなのだ。

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