2010年1月 7日 (木曜日)

「日中友好」なる虚像

「古代中国の虚像と実像」(講談社現代新書・落合 淳思著)という本を読んだ。

我々がよく知っている古代シナの逸話はたいていが史実ではなく後世に作られたものだ、というのが全編を通してのこの書のテーマである。著者は物語は物語として、科学としての歴史をこの書で語りたい、というスタンスである。例えば秦の始皇帝の「焚書坑儒」は、焚書は本当のようだが坑儒は疑わしいという。儒学者だけが弾圧されたのではないらしい。三国志演義がずっと後の明代になって創作されたフィクションであり、本当の三国志とかけ離れていることは周知の事実だが(この本の最後は三国志の時代から司馬氏が魏から皇位を簒奪した晋の初期である)、そこまでいかなくとも古代シナの史書に書かれている多くの逸話は作り話であり、また実在と思われているが実は架空である人物も多いようだ。

司馬遷の史記は本格的な歴史書の嚆矢だが、漢代はともかく秦代は短すぎて史料が整わなかったために、伝聞に基づいた記述が多く、そのためにフィクションが多数含まれているとのことだ。

典型的な作り話のパターンは、秘密の会議の内容や敗者の最期の言葉が語られているものであるという。そんなものは残るはずがない、というのが根拠である。言われてみれば当たり前のことだが、あまりにできすぎた物語は、その面白さ故真実に思われてしまう。物語として楽しむのであればそれでいいのだが、問題は専門家である歴史学者までが簡単に騙されてしまう点だともいう。

それだけ古代シナ人は人を欺くのが巧みだったと言うことだろう。そしてそれは現代にもつながっているようにも思える。

この本を読んでいてつくづく感じたのは、白髪三千丈というシナの誇大妄想と、前王朝を徹底的に指弾する後継王朝による正史の凄まじさである。2000人生き埋めなどというのがあるが、これは南京大虐殺30万人に通ずるところがある。2000年後の歴史家が精緻に史料を分析すれば、南京大虐殺が虚構であるかシナ人による自作自演であることが明らかにされるだろう。現在これを主張すると日本で右翼認定される(笑)。

歴代王朝の初期の皇帝は概ね名君で、末期は概ね暗君・愚帝である。これはシナ正史の制作方式による宿命であることは言うまでもない。前王朝の末期を悪く言わねば、それを滅ぼした自らの正統性を否定することになるし、その裏返しで初期を褒めなければ、これまた自らが初期王朝であるためにその首を絞めることになる。

問題は現王朝の中華人民共和国である。今の胡皇帝は何代目だっけ。
通史では前王朝は中華民国ということになっているが、アングラの共産党も含めて実態は新三国志と言ってもよいだろう。国共合作なんてのは呉と蜀が連合して魏と対峙したように、現代の赤壁の戦いかもしれない。その一つの汪兆銘政権は日本の傀儡とされている。つまり日本は中華人民共和国から見れば断罪すべき前王朝の一部に見えるのだと思う。「日本鬼子」は事実上江沢民らによる中華人民共和国王朝によるシナ伝統の正史に位置づけられていると見て間違いないだろう。

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2009年3月22日 (日曜日)

珍訳発見

大学生の娘が買ってきた本をちょっと見せてもらった。変な言葉があるという。
書名は『移民と現代フランス』
ミュリエル・ジョリヴェ著 鳥取 絹子訳

「同化またはフランス協会」

え゛っ? なんじゃこれ。こんな訳語を最終稿にする訳者も訳者だし(これじゃ厄者だよ(^_^;))、そのまま印刷して出版する集英社も集英社だよ。アリアンス・フランセーズ(Alliance Française)のことかな、と思うのだけれど、この「直訳」から元のフランス語を復元して、まともな日本語にできる方はいらっしゃいますかねえ。

この本は、よくある訳本と同じで、こういう珍訳だけでなくそもそも訳文が悪文で読むに耐えないらしい。

(追記)
amazon.co.jpのカスタマー・レビューを見てみた。

非常に残念なのは翻訳があまりにもひどいということです。日本語として不自然な表現が多いのはまだしも、フランスの行政・法律用語や社会学などの学問的用語に関して、誤訳が多すぎます。
他のレビュアーも仰っているように、私もこの本の翻訳には不満です。
もっとも、移民のあまり堪能でないフランス語を表現するためにわざと悪文にされているのかもしれませんが。
後の方は痛烈な皮肉だ(笑)。

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2009年3月10日 (火曜日)

お遊びにしても悪い冗談

今朝の新聞広告に文藝春秋4月号が掲載されている。
特集は「これが日本最強内閣だ」。

写真を見て我が目を疑った。冗談だろ(笑)。

総理大臣に奥田碩、外務大臣櫻井よしこ、総務大臣橋下徹、財務大臣小泉純一郎、官房長官野中広務、環境大臣阿川佐和子。他はどんなメンツが、と思い、仕事帰りに近くのなじみの本屋でちょこっと立ち読みした(文春は買わずに別の新書を一冊購入w)。農水大臣片山善博、厚生労働大臣丹羽宇一郎、行革担当大臣渡辺善美、国土交通大臣葛西敬之、防衛大臣前原誠司など。

本当に政治家としての資質があるかどうか、ご本人がそういう意志があるか、というのは棚上げして個人的な感想を述べてみる。莫迦も休み休み言え、と思ったのは奥田総理、櫻井外相、小泉財務相、野中官房長官、阿川環境相である。

奥田の評判は御手洗@キヤノンとどっこいどっこいだろう。櫻井では前原とコンビですぐに戦争になりそうだ(爆)。野中では国益が守れそうにないし、阿川にいたっては環境相は女なら誰でもいいということか(^_^;)。それなら高木美保とか松居一代とか益戸育江などどうしようもない「適役」はごろごろしているではないか。

橋下はむしろ財務相をやらせてみてはどうかと思うし(法務相には向いていなさそうだw)、片山が総務相でよい。オペラ好きの小泉は文部科学相でいいよ(笑)。丹羽厚労、渡辺行革、葛西国土交通はいいかもしれない。毀誉褒貶あるけど環境相は武田邦彦センセが面白いんぢゃないかな(^_^;)。あと、これは本当に冗談で農水大臣は田中義剛ね(^_^;)。

総理大臣は条件付きで川渕三郎はどうかなあ。その条件とは、Jリーグ発足前後の完全独裁者化していない頃の、という「期間限定」だ(笑)。JFAの会長になって以降は迷走したけれど、その前の川渕さんはアイディア、理念、実行力、リーダーシップなどなかなかのものだったと思っている。王貞治氏なんかもよいかもしれない。

結局、本職の政治家の大半が無能だから、こういう記事が出てくるのだな。

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2008年12月18日 (木曜日)

絶版

私事で恐縮だが、2001年9月に共編著で京都の学芸出版から刊行してもらった「市民版まちづくりプラン実践ガイド」が先月末で絶版になったという連絡をもらった。それ故、ダラダラと貼り付けていた右のサイドバーのamazonへのリンクも外した。自分の中ではとっくに過去のものになっていたので、今頃絶版か、というのが正直な感想だ。

型どおりなのだろうが、版元から送られてきた書類には「ご高著」という言葉が記載されている。しかしその直後には「販売継続の見通しが立たず」(笑)とあるから、とても慇懃無礼に響く。こういうのは嫌いだ。たくさん著作物を世に送り出している人は、こういう慇懃無礼な書類もしょっちゅう受け取るということか。

初版1000部で確か第二刷が出たように記憶しているが、もともとそんなに売れる本ではないし(収入は印税ではなく原稿料方式だったので部数は関係なかった)、出てから7年も経過して「旬」ではなくなった。IT関係の記述もあるのだが、何しろ2000年頃の状況を反映しているので、out of dateもいいところだ。そして、今では「市民版」などと冠をつけなくてもいいくらい専門家の影は薄くなっている(出番が少なくなっている)ように思う。学者や官庁プランナー、一部の大家はその限りではないが。それはこの本を編集する時に自分自身で予測していたことでもある。大げさな言い方だが、1980年代から20世紀末までの自分の仕事の総括のつもりでつくった本だったが、50歳になった年にその本自体が消えるというのはなにやら象徴的でもある。

若い頃は、適切な規制によって良好な都市環境をつくる、ということを信じて疑わなかったが、今は正直そんな考えはあまりなくなっている。もちろん野放図でよいとは思わないが、行政の権限が大きすぎるのは考え物だ。

「まちづくり」という言葉とその担い手は私が学生だった頃と比較すると段違いに広がったが、その分中身は薄くなってしまった。担い手の数は多くなったかも知れないが、歴史や文化、自然といった要素を含めた都市のコンテクストを読める人は多くはないだろう。自分たちのまちは自分たちでつくる、とよく言われるが、そうした概念の底には、自分たちが一番よくまちを知っているという一種の驕りがある場合があり、それ故、実は自分たちのまちのことをあまり勉強しないで自己主張だけする人がいる、あるいは先入観や固定観念が強すぎる。もちろんそうではない、有能な人もいるので、そういう人が「まちづくり」の担い手である場合は、そのまちは幸福である。

9月に大学院の先輩である建築家・都市計画家の堀池秀人氏から著書"まちの遺伝子 −「まちづくり」を叱る"を贈っていただき、一読して共感するところが多く、最近の都市計画に対して抱いていた、そうした不満が少々解消できたような気分になった。この本のamazonへのリンクを右のサイドバーに貼っておくことにする。

しかし本を読んで鬱憤を晴らしているだけでは建設的ではない。これからは、都市の扱いが薄っぺらにならないよう、どうしたらいいか考えなければならないな。

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2008年12月 9日 (火曜日)

安らかに眠って下さい

絵本作家キヨノサチコさんが6月に死去 『ノンタン』の作者 (ウェブ魚拓はこちら)

「ノンタン」は二人の子供がまだ小さい時に、ずいぶんと読んで聞かせたものだ。親子共々世話になったわけで、よく覚えている。読んでいて自分自身もけっこう楽しんでいた記憶がある。
作者の方が半年近くも前に亡くなっていたとは残念だ。病に倒れなければ、もっと作品を世に出せたはずだ。

実現するかどうかわからないが、もしも将来孫ができたら、また読んで聞かせよう。だからキヨノさん、安心して天国で暮らして下さい。

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2006年10月16日 (月曜日)

言論の自由の判断基準

最近世の中が「右傾化」している、というサヨク陣営(なんちゃって左翼もいるので、サヨクと書くことにする。ついでに左翼は与作のアナグラムでもある、どうでもいいけど ^_^;)の主張が目立つ。これに対して、今までが左傾化しすぎていた、とか左から見れば真ん中が右に見える、といった反論がある。どちらも一理あるだろう。

さて、昨今メディアに、進歩的文化人というカテゴリーに属するサヨク陣営の著名人・識者による「言論の自由が脅かされつつある」とか「物言えば唇寒しの世の中になりつつある」といった主張がよく登場するようになった。

しかし、これは本当なのだろうか。

一般論として見れば、むしろ言論の自由は拡大しているのではないかと思う。かつては新聞や雑誌の投稿欄くらいしか意見の発表の場のなかった一般人にとっては、言論の自由どころか、言論の場すらほとんどなかったといっていい。それが、少なくともブログのような手段が登場してくれたおかげで、言論の場は確保できたし、そこで何を主張しようが基本的には自由である。

では、どうして一部の人達は言論の不自由を感じるのだろうか。

かつては戦後民主主義全開であった。それは結果平等主義、人権主義、反戦平和主義、労働組合独裁制、日本国憲法原理主義など、言い換えられる概念は数多い。そして、(前述のように、実質的に言論の場を独占していた)マスメディアの大半も同じ主義主張であったから、進歩的文化人達のサヨク的主張は修正されることもなく紙面に記載され、それに対する反論もほとんどなかった。反論は一部保守系論壇に限定されていたが、これらは戦後民主主義が跋扈する中では少数派でしかなく、影響力も小さかった。つまり、彼らにとっては、何を言っても許される居心地にいい時代が長く続いた訳である。

一方、保守派にとってはというと、戦前の歴史や防衛問題で本音(しかも多くの場合、それは事実である)をちょっと吐露しただけで、閣僚が更迭されるような時代だった訳である。つまり保守派にとっては、事実上言論の自由はなく、それこそ「物言えば唇寒し」どころか首がとぶ事態を招いたのである。

コンピュータネットワークが個人を結びつけるようになって、事態は逆転した。伏線としては、当然東西冷戦が崩壊したことが大きい、インターネットの前身であるArpa netはその東西冷戦時代に、アメリカ合衆国によって構築された軍事ネットワークであることは、歴史の巡り合わせなのだろう。

北朝鮮を地上の楽園と賞賛し、その国による拉致はなかった、などと強弁しても許された時代は去った。嘘は瞬時にばれる。逆に少数派と思われていた保守派の本音が、実は決して少数派ではなく、論理的、理性的に考えれば正論であれば、それは多くの人達に支持されるようになったのである。

自分たちの主張が批判されれば、言論の自由の弾圧であると騒ぎ、自分たちと異なる主張が弾圧されていた時代を懐かしむのは、結局のところサヨクお得意のダブルスタンダードでしかない。彼らは小泉前総理を独裁的だと言い、安倍総理を超タカ派だなどと言うが、自分たちの方がよほど独裁的で強圧的であることに気がつくべきである。

ついでに懺悔しつつ書くが、そういう私は1990年代の初めくらいまでは左翼的な思想の持ち主だったのが、30代半ばくらいで洗脳が解けた(笑)。そのおかげかどうか知らないが、現在も含めてこれまでずうっと言論が不自由だと感じたことはない(爆)。

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