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2011年4月24日 (日曜日)

崩壊しかけている進歩と安全の神話(翻訳素案)

ツイッター上で見つけたフランス語の文章(ドイツ人社会学者の論考をフランス人が翻訳したものと思われます)を日本語訳してみました。原文はこちらです。

社会学は専門ではありませんし、ざっと訳しただけで(疲れたのでw)校正チェックをしておらず、おかしな部分も多々あろうかと思いますが、速報性を重視してとりあえず掲載します。誤訳や修正などの指摘があればコメント欄にお願いします。

なお、自分自身の勉強の意味も含めて訳しているので、記述内容自体に関しての責任は負いかねますし、私個人は必ずしも書いてある趣旨に賛同している訳ではないことをお断りしておきます。

崩壊しかけている進歩と安全の神話
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2011.3.25

ウルリヒ・ベック(ドイツ人社会学者)Ulrich Beck
フランス語訳 クリスティアン・ブーシャンドーム Christian Bouchindomme
日本語素約 @florestan854

グローバル社会のリスクを語ることは、時代の中心には一見しただけではわかりにくい進歩というものがあって絶えず社会的な論争を引き起こすような現代について語ることだ。
最大のリスクが訪れることは、個人にとっては預かりしらないことであった。そうではなくて、なにか事件が起きる度に政治が牽引力として利用するのである。核のリスク、気候変動、財政リスク、9.11等。私は25年前、チェルノブイリが起きる前に既にそうしたシナリオのことを述べていたのだ。

過去の工業化社会のリスクと異なり、今日のリスクには地理的、時間的、社会的に際限がない。因果関係という観点からは、失敗や責任を誰かのせいにできる規則は1つもない。賠償も保証もできないのである。民間の保険では守れない場合−原子力エネルギーや最新の遺伝子工学が該当する−定量化可能なリスクと定量化不可能な危険の境界はとめどなく曖昧である。工業製品の危険は外部経済化され、法によって個別化され、技術によって適正化され、政治によって最小化される。端的に言うと、潜在的に自己崩壊が進行する可能性のあるものに対して「合理的」な制御を確実にしようとする規制の仕組みは、ジャンボジェットの上で自転車を規制する程度の価値しかないのである。

だが、福島とチェルノブイリを区別する必要はないのだろうか。日本で起きていることは実は自然の大災害でありその破壊能力は人が決めた結果ではなく、地震と津波のせいなのである。

人為的決定と関連づけられるリスク

自然災害という言葉によって、人間が引き起こし、維持し、その結果責任を負うことになるのとは異なる事象を表現できる。しかしながら過去の世紀にこうしたことは我々の前に姿を現さなかったのだろうか。実は自然自体は「災害」を知らないのでこうした概念は破綻している。強いて言えば突然変化が起きるというだけのことである。地震や津波による変化は「災害」ではなくそれは人間の文明での言い草なのだ。しかし地震多発地帯に原子力発電所をつくるという決定は明らかに自然のものではない。住民の安全性に対する要求を考慮し反対意見を説得して正当化されねばならない政治的決定である。これは原子力発電所だけに当てはまるのではなく、高層建築物や高層建築物群からなる東京のような国際都市の都市計画などにもいえることだ(東京より規模の小さい都市を除外するということではない)。いわゆる自然災害は人為的決定と関係づけられるリスクに変質するのである。後者は少なくとも原理的には決定者に責任がある。日本の現実から感じ取れることは、どの点が自然に原因があり、どの点が技術や人間の能力に原因があるのかがお互いに入り組んでいるということである。

ごく一般的な見方:「純粋な自然」しか存在せず技術や社会への反対など不可能な歴史上のある時期での「自然災害」や「環境のリスク」について語る。「汚染」と「環境」は互いに全く別のものである。汚染の一例は化学工業であり、環境の例は市場に供される農業、観光や漁業などである。

原子力産業には環境保護活動家から学んだことがある。主要なリスクを回避しようとすると「残ってしまうリスク」があること。競合関係にある解決策を批判して相手に先制攻撃を加えようとすること。未曾有の大惨事を煽り、大衆にリスクを演出することで全く異なる物語を展開できること。競合相手を貶めれば貶めるほど自身の欠点をよりよく見せる(終いには欠点がないようにさえ思えてしまう)ことが出来ること。
逆説的であるが、気候変動の深刻化によって、原子力産業に世界規模での新たな市場の扉を開いたのはこうした結果なのである。

近代社会は、「倫理技術」を確かなものにすることでリスクに対応しようとした(フランソワ・エウァルド)。我々はもはや神の摂理や運命の一撃に必要以上に身を委ねる必要はなく、自然や世界や神との関係は変質した。それ故、今後は原則として自分達で起こした結果に対する償い方を用意して、自分達の不幸には自分達で責任を負わねばならない。このようにして、18世紀以来あらゆる分野で成功を収めてきた「確実な生き方」の神話が機能してきたのだ。

実際にうまく行ったことだが、工業化社会での古典的なリスク管理とは社会的合意の対象であり、そのために事前の備え(火災、保険、心理的・医学的・その他の負担の引き受け)に関して追跡調査を実施したのである。
さて、日本から送られてきた悲劇の写真を見て衝撃を受けたとすると、それは犬や狼も持っている直感のようなものでもあり、写真を見れば誰でも衝撃を受けるだろう。
今日では、常識的な範囲内で予見できる最大級の事故に備えている組織など実際には1つもないし、そういう組織を考えることもできない。その結果、どんな組織も最後の最後には社会秩序や文化的・政治的機構を保持することができないのである。(訳者注:このパラグラフは正確に読み取れている自信なし)

たくさんの俳優が危険のない役柄を専門とするようなり、それが可能となった。事前の備えの調査結果による安全の確保は、無謬性の聖なる教義に置き換えられてしまった。サルコジがいみじくも言ったように原子力先進国のフランスは特にその傾向が強いが、どの国も自分達が世界で最も確かな発電所を持っていると言う。教義の庇護者は原子力に関する科学と経済学であり、世界のあちこちで公共空間を火の危険に晒したという過ちの現行犯で捕まられたところなのである。(訳者注:この文章もよく意味がとれなかった。原文はLes gardiennes du dogme, ce sont la science et l'économie nucléaires, celles-là mêmes que l'on vient de prendre, sous les feux de l'espace public mondial, en flagrant délit d'erreur.)
チェルノブイリの事故が起きた1986年には、フランツ−ヨゼフ・シュトラウスが共産圏の原子炉だけが爆発する可能性があると主張していた。そしてそれは合意が得られていた。:西側の先進資本主義国はより確実な発電所を立地させている、と。しかし今回の損傷は、最良の設備を持ち最も安全だと考えられている先端産業の国日本で起きた。我々は安全の風呂に入っているという虚構は西側で現実には崩れ去ってしまったのだ。単純に:「一体全体何が起こったというのだろうか」と問いかけてみたところで、事前の備えがなければ虚しいだけである。政治的な安定のあるリスク社会では、安定はもう1つの別の安定、つまり問題に向き合わない理由ばかりを考えていることに結びつくだけである。

いずれにしても、技術的合理性に基づく安全神話は福島での劇的な事故により、世界中の人の目の前、あらゆる居間で吹き飛びつつある。合理的に予測可能な重大事故の評価を行う場合、確率論及び確率論を用いた科学技術分析に基づいた安全性にもはやどれだけの意味があるのだろうか。事故が発生しても理論は無傷で残るだろうが、生命は全滅してしまうのではないのか。ここでもう1つの質問を提起する:こんな法制度がどれだけ役に立つのだろうか。技術的なやりとりが可能な小さなリスクに対して詳細に対処できる規制だが、その権威を利用してあらゆる生命の存在を脅かす大きな危険を受容可能な「残存リスク」として合法化したり支持するような法制度が。

私たちは「原子の化身」に対して反原発政策のジレンマに悩んでいることを評価することになるだろう。そしてその化身はメルケル首相が見事に体現している。有権者が自らの安全に対してリスク感を持って精力的に主張するという意識を目の前にせざるを得なくなった時に、そしてほんの僅かな災害の兆候があっても支持集団での信頼を取り戻し、告発される潜在的可能性が永久に続くような状況を打破する必要が生じた時に、どうやって政権を維持するのだろうか。

日本に希望が残っているとすれば、ヘリコプターから海水を放出することで、停止した冷却システムの代わりをする任務を負った自衛隊の出動であることは確かである。皮肉なことだが、自衛隊は自分自身を守る存在なのだろうか?ヒロシマは恐ろしかった。絶対的な恐怖だった。だが少なくとも攻撃したのは敵軍だった。脅威が自国の生産的な地域からやって来たらどうなるというのだ。しかもそれは軍事的脅威ではない。今日本を危険に晒しているのは法、秩序、合理性、民主主義の権威そのものなのだ。もしも最後の望みだった風向きが異なっていて東京が汚染されていたなら、どのような産業政策が守られるべきものになっていただろうか。技術、民主主義、理性、社会に対するどのようなリスクが我々を待っていたのだろうか。

日本から届いたトラウマになるような写真が虚構の恐怖をつくり上げニセ科学への共感を呼び起こすだろう、と不平を言う人達がいる。だがこれは固有の政治力学を全く知らないための誤解であって、普通は過小評価だが、輝かしい資本主義の自滅の潜在的可能性があると考えてしまう。
危険の多くは、放射線もその一例だが、目に見えない。危険は日常生活では目につきにくいものだ。抗議のための破壊行為は象徴を用いた時にはじめて表現としての意味をもつ。一般市民は自らの感覚で捉えられない脅威に注意を払っており、文化的には見る目がないがテレビの映像のおかげで世の中が見えたような気になれるのである。

政治的なリスク定義ができるほどの力関係を逆転させられる革命的な主題が存在するのかどうかを知ろうとする質問は空っぽの容器をひっくり返そうとする質問のようなものだ(深刻なリスクであるかないか誰が評価するのか?認知科学のどんな仮説に基づいて行うのか?)。公共領域への重大な介入がメディアで取り上げられる様々な反核運動などの全てに、原子力推進政策の転換のきっかけをつくる力はない。もてる手段を駆使しても目的地にはたどり着けないだろう。結局のところ、反原発派がいたとしても燃料輸送を阻止するデモ参加者になる人は多くはない。燃料輸送ルートは調べなければわからない。原子力エネルギー反対の槍先は原子力産業自体の中に存在しているのである。


安全神話は災害の映像の中で燃え尽きようとしている。原子力の開発者が可能性を決定的になくしてしまったのだ。知性や秩序の守り手が生命を危険に晒したものに対する法制化や正常化をすることが理解され根拠を与えられたとしても、安全を約束された官僚主義の中心には、多くの対処すべき問題がある。それ故、階級社会における「政治主題」の問題は、リスク社会における「政治的反射性」の問題と対応していると言っても過言ではないのである。

しかし、神が深い慈悲の心で我々に捧げ物をしてくれるであろう新たな(神の支配する悠久の)歴史(l'Histoire)の段階に、「知性の光」が入ったと結論するのは誤りかもしれない。正反対に、ここでラフに提示した見通しを見て、船に浸入してくる水を、船底まで穴を貫通させて排出しようとする船員の愚かな作戦を思い起こすという評価を好んでする人がいる可能性もあるからだ。
(以上)

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