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2010年2月12日 (金曜日)

相撲と品格について考えてみる

ダクワドルジ(元横綱朝青龍)の事実上の解雇である強制引退について、世の意見が2つに割れている。
当然だ(いや、当然だが功労金が高すぎる、という声も)というのと、そこまでやる必要はないという2つなのは言うまでもないが、前者が「横綱の品格」を問題にするのに対して、後者は品格という概念の曖昧さに着目して外国人力士だったダグワドルジに同情的な意見である。

確かに品格というのは国語辞典的な定義は出来ても、実態が曖昧である。横綱推挙の条件(日本相撲協会内規)も「二場所連続優勝またはこれに準ずる」というのと「心・技・体に優れている」というので、この「心」という部分が品格に相当するものと考えていいだろう。

さて、現代の相撲において横綱は最強者の地位だが、上記のように技術的、体力的に勝っているだけでなく精神的にも優れた人格者であることが求められる。つまりは全力士の模範であることが求められ、かつ広く社会一般から尊敬を集める存在であることが必要なのだ。横綱における品格とはそういうことだ。

その地位から陥落せず高給が約束されるかわりに成績不振になれば引退しかなく、常に優勝を求められるプレッシャーの中に身を置くことになる。その言動も常に注目される。要するにプライバシーの存在する余地が少ない公人なのだ。これは常人には考えられない厳しい条件だ。だからこそ心の充実が求められるわけだが、多くの場合20代の若者である横綱にとって、時にはこの重圧から逃げ出したいこともあるはずだ。だから羽目を外すことが悪いとは誰も言えないだろう。

問題はその外し方である。ダグワドルジはことあるごとに記者達に「ぶっ殺すぞ」と毒づいていたという。これはテレビ番組で記者の証言がある。そして今回の騒動の発端も、人を殴ったということである。警察が捜査に動くような刑事事件に発展する可能性がある暴行なのである。仮病サッカーも嘘つきという点では人格的に問題があるが、彼の暴力はDVとしても現れて離婚という結果を招いている。

これは日本人だとかモンゴル人だということや、相撲が強いかどうかとかという問題を離れて、暴力体質の犯罪体質の人間であると疑わざるを得ない。身近にいる仲のいい人達はそれを否定するかもしれないが、相手によって態度を変える多重人格である可能性もある。品格以前の問題であることは明白である。いや、「時津風事件」に象徴されるような相撲界の暴力体質というものを考えた時、品格の厳密な定義は不可能としても「暴力をふるわないこと、特に目下の者や体力的に弱い者に対して」という最低条件は付けられるはずである。

品格という言葉の曖昧さを棚上げしても、ダグワドルジを横綱にしたのは間違いだったと言わざるを得ない。ヒール役として強い相撲が見たい、というファンの気持ちはよくわかる。あの豪快な相撲は確かに見ていて気持ちがいいだろう。彼の運動能力が超一流であることは明白だ。だからこそ最強、いや最凶な大関として、プレッシャーの相対的に弱い地位に据え置けばよかったのだ。大関ならばここまで品格が問題にされることはなかっただろうし、彼が狙っていた33回の幕内優勝も達成できたかもしれない。

かつて大相撲の最高位は大関で、横綱は大関の中でも特に優れた者に与えられる名誉称号だった。例えて言えば大関は常設の最高権力である老中であり、横綱は臨時に置かれた大老職のようなものだ。あ、歴史が苦手な人には例えになってないか(^_^;)。横綱土俵入りがなくなってしまうなど興行的には困難なのかもしれないが、もう一度こういう仕組みに戻すことも一考ではないだろうか。あるいは伝統芸能として日本人限定の大相撲を残す「芸能部門」を設置する一方で、格闘技として国籍に関係なく強さだけを競う「競技部門」を分離したらどうなんだろうか。

誰だったか、ラジオで、大相撲の千秋楽の取り組みや表彰式が終わった後の土俵の撤去までを残って見てみるとよい、と言っていた人がいた。神事としての相撲に詳しい女性である。かなり厳かな雰囲気で神秘的なのだという。あれこれ能書きたれてきて最後にヘタレだけれど(笑)、横綱の品格というのは、そういうのを体験した人だけが論評するのを許されるのかもしれない。

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日本人が氏神を持つように、ニュージーランドの先住民、マーオリの人達は自分の属するマラエ(集会所)を持ちます。 そこには、日本の神社と同じように祖先が祭られ、その祖先との繋がりを、折りに触れて意識しながら生活しています。 マーオリの人々は、日本の八百万の神のように、自然、人工のあらゆる物にマウリという生命の力が宿り、全ての物を結びつけていると信じています。 さらに、次の記述を読めば、言葉や規則に強い精神的な意味をこめる日本の文化と、マーオリ文化がよく似通っていることが分かります。..... [続きを読む]

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