« 社会主義者達 | トップページ | 民主党のマニフェストって一体何なのだ »

2010年1月17日 (日曜日)

「使って欲しくない」言葉について考えてみる

今日は兵庫県南部地震(災害名は阪神・淡路大震災)の15年目に当たる日である。

その今日、民主党の逢坂誠二代議士がTwitterで「亡くなった方の冥福を祈る」と「つぶやいた」ので、「浄土真宗の信者の方もいるかもしれないからまずいのでは」とレスしたところ、迅速に訂正のメッセージが出た。さすが地方自治体の首長経験者である。ここいらの対応は素早いし、他人の諫言も受け入れる度量がある。

そしたら、けっこう反響があった模様で、Twitterのフォロワーの数が増えた(笑)。
知らなかったという人もいて、やはりきちんとした宗教教育は必要だな、と実感した次第。私も学校で習ったわけではなく、社会に出てから学んだのだけれど。もちろん真宗だけでなく仏教以外の宗教に配慮する必要もある。

ちなみに真宗は信者ではなく門徒では、という指摘も私に対してあったので、これは素直に訂正した。もちろん門徒というのは広い意味で信者なので間違いではないが、真宗の場合慣習的に門徒という言葉を使うようだ。

中には慣用表現なんだからいいではないか、とか、形式よりも気持ちだ、という反論もあった。気持ちを示すには形式を重視しないとダメなこともあるのだが。それから実際に真宗の方から、「冥福を祈る」は使って欲しくない(特にメディアから)という反応もあった。一方実家が真宗だけれど「冥福を祈る」と言っていた、というのもあった。これはその家がどれだけ熱心な真宗門徒かどうかによるのだろう。

また「冥福は祈るものではない」という主張もあった。これは「冥」という言葉をめぐる本質的な問題点を指摘した意見であるが、ここでは深入りしない。

ともかく、当事者から使って欲しくない、というのだから、やはり政治家やマスメディアが不特定多数の死者に向かって「冥福を祈る」は使うべきではないだろう。例えば「哀悼の意を表する」といった無難な代替表現もあるのだ。

言葉狩りをするつもりはないので、この言葉を発する対象者が「冥福を祈る」を許容する場合は問題ない。

言葉狩りと言えば、私はいわゆる差別語に対する言葉狩りを批判する立場ゆえ、ダブルスタンダードではないかと批判される可能性があるので、この点についても考えを示しておく。いわゆる差別語も「当事者が使って欲しくない」言葉のカテゴリーに属するからだ。

「冥福を祈る」との決定的な違いは、こちらは宗教がらみであり、日本を含む近代国民国家の多くでは基本的に信教の自由が認められていることだ。真宗を弾圧することはできないし、その真宗の門徒が受け入れない言葉を彼らに対して使うべきではない。しかし、この言葉自体は忌み言葉でも何でもない。状況によって使用する自由がある。

一方、いわゆる障碍に関わる差別語は、当事者がその場にいないとしても、その言葉を嫌う人がいる可能性が多いので、状況によって使用する自由があるとは言えない。実際、私も「盲」「聾」といった言葉を口にすることはないし、すべきだとも思わない。

しかし、盲判とか聾桟敷といった言葉は差別の意図がない成句(慣用表現)であり、使用を制限することは言語文化に関わる問題であると思うので、これらの言葉狩りには反対なのだ。ましてや片手落ち(片・手落ち)を片手・落ちと曲解して糾弾するような思想には全く同意できない。こういう過剰反応は障碍者当事者よりも周辺の人たちによることが多いように見える。

要するに「視覚障碍者」に対して「盲」と罵ることはいけないが、彼らとはなんの関係もない状況で、何も考えずに書類に目をまともに通すこともなく機械的に判子をつく行為を客観的に「盲判をつく」と表現することまで規制すべきではない、ということだ。

「知恵遅れ」や「精神薄弱」が差別語とされ「知的障害」と言い換えられて久しいが、いまや人々の本音の部分ではこれを省略した「知障」が差別語らしき用法をされているのだ。これを言い換えればまた新しい言葉が差別語として変容していくことだろう。「障害」を「障がい」などと書き換えたところで、それは似非正義感の自己満足にすぎない。英語圏でchallengedなどという表現が使われているのも同様だろう。障碍に対しての言葉狩りは、人間の本質からして、問題の解決にならないことが明らかなのだ。

|

« 社会主義者達 | トップページ | 民主党のマニフェストって一体何なのだ »

コメント

これは勉強になりました。参考にさせていただきます。フロレスタンさんの日本語に対する真摯な姿勢に敬服いたします。

障碍に対しての言葉狩りの話題が出るたびに思い出すのは、アメリカの博物館で見た一台のレースカーのことです。
http://www.disaboom.com/auto-enthusiast/man-with-rheumatoid-arthritis-turns-chicken-coop-into-race-car

投稿: wagonthe3rd | 2010年1月20日 (水曜日) 05時40分

>>wagonthe3rdさん

過分のお言葉、ありがとうございます。

ここ数年、書き言葉と話し言葉の違いというのをかなり意識するようになりまして、それは日本語だけでなく英語を使う時もそうです(こちらは普段あまり機会がありませんが)。

書き言葉というのはきちんと教育しないとまともに使えるものは書けない、というのが私なりの考え方ですが、話し言葉でも、友達同士の会話レベルではなく、相手に伝えるべき重みのある内容の場合には、書くように話すべきではないかと思うのです。まあ「逆言文一致」とでも言いましょうか(^_^;)。

とはいえ不完全な点も多いので、日々学習ですね。

投稿: フロレスタン | 2010年1月20日 (水曜日) 06時53分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/34842/47320376

この記事へのトラックバック一覧です: 「使って欲しくない」言葉について考えてみる:

« 社会主義者達 | トップページ | 民主党のマニフェストって一体何なのだ »