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2007年12月 5日 (水曜日)

論点整理が必要だ(区画整理訴訟)

<最高裁大法廷回付>区画整理巡る訴訟 門前払い見直しか

共産党を中心に、日本には土地区画整理事業が憲法違反であると主張し続けている勢力が存在する(「自治体問題研究所」で検索されたし)。この門前払い見直しがとおれば、訴訟が相次ぎ裁判所業務の増大と区画整理事業現場の混乱をもたらすだろう。弁護士は儲かり、自治体業務の圧迫につながる可能性もある。

しかし、土地区画整理事業(以下、単に「区画整理」)が曲がり角にあることも事実である。

区画整理は各地権者の所有地から土地を出し合い、道路や公園に充当したり(公共減歩)、第三者に売却する土地を生み出したり(保留地減歩)することで、土地買収を原則として必要とせず(事業者による区域内の土地の先買いがなされることがある)、計画的な社会基盤整備を実現する手法である。減歩が私権制限とされない(上記勢力はこれを認めてない)根拠に、「宅地価額の増進」という概念がある。要するに土地が値上がりするから、減歩で所有地が目減りしても資産価値は減少しない、ということである。

上記記事中にある判決の出た1966年という時代は高度経済成長まっただ中。土地の価格は右肩上がりで上昇し、所得も毎年増加した。一方、道路や下水道、鉄道、港湾、河川といった基盤整備の拡大の必要性の高かった時代でもある。区画整理は時代と社会の需要に合致していたのである。恐らく減歩後の土地でも値上がりが見込めて、資産価値は事業前よりも高くなる可能性が大きく、しかも所得も増大すれば他に土地を購入することも不可能ではない。よほどのへそ曲がりか、営農継続希望者か、上記のような思想的な背景のある人間でなければ、積極的に反対する理由など存在しなかったと言ってもいい。行政に対する「根拠のない」(笑)信頼感もあったろう。「お上のやることに間違いはない」と。

時代は下って、東京都心など一部を除いて地価は上がらなくなった。下がることも珍しくない。つまり区画整理は普遍的な事業ではなくなってしまったということだ。宅地価額の増進による資産価値の保全が成立しなくなってしまったのである。おまけに猫も杓子も「住民参加のまちづくり」である。ただしこれは限度を超すとポピュリズムの世界に陥る危険性をはらんでいる。

施行主体は自治体の他、地権者による組合、個人、都市再生機構などがあるが、組合の場合もしばしば実質は自治体であり、丼勘定の収支で運営され、補助金や借入金漬け、まともに組合の総会も開催されない、といった悲惨な実態も見られる。傷が深くならないうちに事業を中止するケースもある(が、自治体が音頭取って、大勢の地権者を巻き込んで事業計画段階まで進んでしまうと容易に後には引けない)。

早い話が問題は山積みということだ。

さて、今回問題になっている浜松市の「西遠広域都市計画事業上島駅周辺土地区画整理事業」であるが、遠州鉄道の高架事業を区画整理と一体的に実現しようとしたもののようである。住民の反対は何に対してなのか。

鉄道高架事業はしばしば日照や騒音などの問題から反対運動が起きやすいが(典型かつ有名な例が小田急の効果複々線化事業)、高架事業そのものに対してであるとすれば、区画整理とは切り離して考えないとおかしい。
そうした公益性の高い事業に反対して訴訟を乱発できるように司法の判断を変えるのなら、社会に混乱を引き起こすだろう。

逆に換地処分そのものに対する反対であれば、それは上記のような今日的な区画整理の問題点から妥当性があると考えられる。しばしば無理解や感情のみに基づく、あるいはイデオロギーに基づく反対論(土地を「取られる」のは嫌だ)があることも事実だが、いくらなんでもそれは訴訟では門前払いだろう(と思うのは左翼シンパらしい裁判官のいる我が国司法に対して楽観的すぎるかもしれないが)。

国の財政赤字が巨額であり、道路特定財源(しばしば区画整理にもつぎ込まれている)の見直しが政治課題となっている今日、都市の主要な基盤施設(インフラストラクチュア、略してインフラ)の整備を区画整理と一体的に施行しようとするのは問題だろう。一種の「どさくさ紛れ」であり、きちんとした会計処理をしないと(つまりこれまでのような丼勘定をやめるということ)事業の効果計測すらまともにできなくなってしまう。地価が値上がりしない時代に、公共減歩という形で地権者に「たかって」基盤施設を整備するのは地権者の理解など得られるはずがない。その一方で補助金という形で税金をつぎ込むのだから、従来の利権構造は温存される。純粋な宅地供給事業としての区画整理の不採算は、その補助金で覆い隠され、誰も責任をとらない。

本当に必要なインフラ整備であれば、区画整理と一体ではなく単独事業での実現可能性、採算性、効果予測を検討すべきだろう。その上で可能性があって必要性が高いのであれば、実施すればよい。区画整理との一体性はその中で宅地供給の必要性ないし必然性があればやる意義はあるだろう。

最高裁が矮小化された判断をしないことを望むばかりである。

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