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2004年10月27日 (水曜日)

国立のマンション裁判の二審判決

景観緑三法が成立し、都市おける景観の重要性が社会的な認知度が高まっている、という現実を踏まえ、国立の明和地所マンション裁判の本日の東京高裁判決について、一応都市計画プランナーの末席を汚しているものとして、コメントをしておく義務があるだろう。

ここでは都市計画法や建築基準法があり、さらに景観法制という日本お得意のパッチワーク的法制の評価については棚上げしておく。ちなみに小生、景観緑三法の精神には賛成だし、一般的に言って良好な都市景観(主観的な表現ですまないが)の形成や維持も重要だと思う。

その上で、国立市長やこれを支持する今回の原告には賛同できない、とあらかじめスタンスを明示しておく。

法令の解釈や事実関係、あるいはその推移は既に報道や論評がいろいろとなされており、重複するような記述をここで小生がする必要もなかろう。

まずはデベロッパー側に一太刀(ヘタレ刀だが)。
マンション名である。これまで実は知らなかった(笑)。どうでもいいことだからだ。
それにしても、クリオレミントンヴィレッジ国立!なんじゃこれ。日本のマンション(ま、マンションとMansionは意味が違うので、敢えて日本のマンションと言っておく)の名称は、訳のわからないカタカナの羅列で、住んでいる方が恥ずかしくなるようなのが多い。グランドパレス。うーん、住んでいるのは王族や貴族か。英語とフランス語、フランス語とイタリア語といった適当なチャンポン、それも文法の間違い満載も日常茶飯事。響きがよければそれでいいのか。景観破壊の前に文化の破壊である。市町村合併の新自治体名の劣悪さとも相通ずるものがある。おっと、脱線しちまった。

建物の着工が、市条例よりも早いので違法ではない、建築計画が明らかになってからこれを阻止する目的で拙速に条例は制定された、という理由で、今日の判決は原告の主張を退けている。この点は小生も全く同感である。法令は遡って適用されないのであるから当然である。

国立の大学通りの景観を市民の努力で形成してきた、というのは事実だろう。しかし、それはあくまで慣習として守られてきた。今回の問題となった敷地は、もとは工場で文教地区の指定を受けられなかったそうだが、その後に地権者となった東京海上火災はお行儀のよい企業で、慣習を守ってくれたわけだ。しかし今回はそうではなかった。明和地所というのは確かにお行儀の悪い企業なのだろうな。でも法律を破ったわけではない。そもそも違法建築なら建築確認がおりないわけだから着工不可能である。

慣習に安住せず、本当に努力するなら可能な限り情報をキャッチして、お行儀の悪いデベロッパーが土地を手に入れた時点で、条例や地区計画策定に動くべきだった。

気になるのは、こういった「市民運動」をしている人たちにありがちなダブルスタンダードである。
まちづくりデザインワークスというウェブサイトを見ると、このマンションを攻撃する目的だろう、「違法建築 買うのは誰?」「とりこわし裁判中」といった決して美しくない立て看板を掲げている写真が見られる。これも景観破壊ではないのか。自分たちの主張が絶対に正しく、それを主張するためなら何をしてもいいのだろうか。

それからこの人たちにとって住民とは、自分たちと同じ価値観を持って住んでいる人たちだけなのだろう。しかしデベロッパーとして存在している以上、いくらお行儀悪くても、自分たちと価値観が違っても企業も「住民」として存在している。それを排除するのはムラ社会(閉鎖的でよくない、という意味)の論理だ。客観的なルールとしての法制でなく慣習に頼って景観を維持してきたのも、ムラ社会のメンタリティだろう。これまではそれでよかった、というだけでは説得力はない。無論、法令万能を主張するつもりはない。大切なのはそうした道具をいかに使うかという人間だからだ。しかし、国立の原告団に関しては、その人間の「頭」が少しおかしいのではないかと思える。

論点がそれるかもしれないが、国立市長は「無防備都市宣言」なるものを導入しようとしている、というオピニオン誌の記事がある。これは自分たちの都市は自分たちで守る、という意志を捨て、丸腰で敵に降伏する、というものであるが、そんな宣言を考えていること自体、本当に大学通りの景観を守る意志があるのか疑わしい。戦争反対、憲法九条を守れ、といった趣旨であることはわかるが、現実の社会はそんなセンチメンタリズムでは動いていないのだ。

さて、原告は上告するといっているので、今日の判決は最終ではないことになる。最高裁はどう判断する?情緒的な判断は止めて欲しいし、判決主文と趣旨の異なるコメントなど出すべきではない。

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コメント

はっきり言って、日本の都市部とその郊外の景観は醜悪である。農村部は緑もあるし、まあ許せる。どうしてこうなったか? 都市計画法が後からできたとか、いろいろ制度面の理由はあるだろうが、まず、道幅が狭くビルや住宅のセットバックがないだけで、視覚的には美しく見えない。

ブリスベン、シドニー、ゴールドコーストを知るものとしては、その都市景観の美しさは、観光立国オーストラリアの象徴であろう。

小泉首相の観光立国日本は、幻想というより、幻滅といえる。
醜い東京に、欧米人が魅力を感じないのは彼らの自国と比べて当然である。

少なくとも日本の建築家の立てる個々の建築物は醜くない。だが、余裕空間のないところに個性を競う住宅や大小さまざまなビル群が立ち並ぶと、醜くなる。

視覚にはいる1Km四方くらいが統一された示すだけで美しく見えるはずだ。そのためには建物は色や形が同じようなほうが良い。道幅が広くセットバックがあると建物が見えにくくなり、景観がすくなくとも中立になる。


投稿: 大郎 | 2004年10月29日 (金曜日) 22時33分

補足も兼ねてコメントを。
誤解があるといけないので、言い訳がましいけれど、国立の裁判原告の人達の「頭がおかしい」と書いたのは決して気が狂っているとか、莫迦だとか、差別的な意図じゃない。日本って、すぐに言葉の揚げ足とって差別だと騒ぐからね。(自分たちこそ正義だとばかり)独善的になって、冷静に周囲を見られない常態なのだろう、というつもりです。

で、日本の都市景観が醜悪なのは事実。私もひどいと思う。もちろん、そうでないところもあるけれど。国立の大学通りは素晴らしいと思いますよ。だからこそ、こういう泥沼になる前に、きちんと法的根拠を作っておいて欲しかった。

日本の建築家でも、都市のことを意識しているのとそうでないのと混在していると思う。

投稿: ブログ運営張本人 | 2004年10月30日 (土曜日) 01時07分

 地権者の「良心」に信頼して法的根拠をつくってこなかったところをついたのが、「お行儀の悪いデベロッパー」ってことですね。

 ただ、その「慣習」というのは、必ずしも日本的なムラ社会とは関係ないと思いますよ。むしろヨーロッパの方が、慣習法を後になって強力に法制化してますよね。不法占拠でも●年住んだら自動的に居住権が発生する、とか。

 不動産業界は、今や生き馬の目を抜くような熾烈な競争の中にありますから、「狙い打ちだ」「後づけだ」と言われようと、法的規制をどんどんかけていかないと、収拾がつかなくなるでしょう。

 国立の動きを見てみると、景観にうるさそうな市長の当選直後に件のデベロッパーが土地を買い、その直後には規制(地区計画)に向けて行政が動き始めているところを見ると、デベロッパーの方が規制強化前の駆け込み開発を狙ったようにも思えますね。
 結局、条例が効力を持った日には、根切りを始めていて、これが「着工」にあたるかどうかが裁判の論点になったわけですけど。着工にあたらなければ「違法建築」、着工にあたるとすれば「合法だけど基準不的確建築」ってことですね。ところが一審では「着工にあたるけど、それまでの慣習違反なので違法建築」という、トリッキーな判決を出したので、論争を巻き起こしたわけです。

 現実には、国立に限らず、マンション建設計画表明後に後追い・狙い打ち的に規制をかけていく例は各地でたくさん出てきているので、今度は規制の効力が発生する日と着工日のせめぎ合い、になっていくのでしょうね。S

投稿: Ç∆LJÇË | 2004年12月23日 (木曜日) 00時57分

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