2014年12月27日 (土曜日)

MacBook Proが死んだ日

先代の15.6インチのMacBook Proのロジックボードが突然死んだのが2年余り前のこと。好景気もとい後継機として13.3インチの新しいのを購入したが、11月下旬にお茶をキーボードの上にうっかりこぼしてしまい、即死してしまった。

修理の見積もりを複数の「格安」の業者に依頼するも、結局買い換えた方が安いという結論。
しかし、現行のマッキントッシュの商品ラインナップを見ても、ほとんどがSSDタイプ。高性能なのは分かるが高価格で容量が少ないので、選択肢に入らない。唯一のHDDタイプはスペックが中途半端で長く使える機種ではない。iiMacはできすぎるし、ノートタイプでないので自宅用としては手を出すのに躊躇する。

とはいいつつ、死んだMacBook Proのデータは生きていて、使用するデータもあるので、結局Mac miniの一番の安いのを価格.ocmで最安の店で購入して、データを救い出すことにした。こいつは十分に小さいので、そのうちiPad miniでも購入して、iPadとして使用しつつMac miniのディスプレイにも使ってやろうと思っている。

iPadをMacのサブディスプレイにする「Duet Display」、Windowsにも近く対応

でもって接続ディスプレイの関係で現在はMac miniの置き場は会社である、MacBook Proより小さいのに(笑)。

さて、ノートタイプのパソコンはどうしたかというと、結局Windowsマシンをマウスコンピュータで購入することにした。これなら仕事のファイルを完全互換で家でもいじれる(そんなに仕事熱心ではないし、マッキントッシュでも仕事は出来るけれど)。

現在の製品構成を見て、相変わらずアップルは古い資産を切り捨てることに何の躊躇もないのだな、ということがわかったのも「アップル離れ」の一因である。過去にも互換機切り捨て、OS9切り捨て、PowerPC切り捨てなど何度もあるが、その都度付き合ってきた。しかしBTOが事実上アップルストアだけという競争のない環境にどっぷりと浸かるつもりは毛頭ない。

私ゃ信者ではないのでね(笑)。部品供給の日本の某中小企業が反乱を起こしたことも関係している。アップルはブラック企業だもんね。リンゴが六色から単色になったあたりからその傾向は顕著になったのかもしれない。

CPUがcore i7でGeForceのGPUがついて、メインメモリ8GB、ブルーレイドライブがついて、Cドライブは120GBのSSDに1TBのHDDがEドライブ、ディスプレイは15.6インチのフルHDという構成で税込13万円余りは安いだろう。実際起動は速いし、キーボードがテンキー付きでやや左寄りなので慣れないとミスタイプが多いのだが、まあよい選択だったと思う。

ただ自宅でYoruFukurouが使えないのがちと不便だな。

デスクトップならキーボードに液体をこぼしても二れ三文の値段で買えるキーボードがダメになるだけで済むが、ノートパソコンだと被害甚大である。皆さんもくれぐれも注意されたい。それではよい年越しを^^

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2014年6月22日 (日曜日)

実質的に終わってしまった日本にとってのW杯を早々と総括してみる

今回のサッカー日本代表のグループリーグ第2戦までの戦いは「期待通り」なのか「期待外れ」なのかは人によって異なるだろうが、ベスト8だベスト4だ優勝だというあまりにも楽観的(能天気)な見方をした人からすれば期待外れなのだろう。

私は初戦に勝つか引き分けることが出来れば、グループリーグ突破の可能性もあるが、決勝トーナメントの相手が「死のD組」から出てくることを考えると、ベスト8は正直苦しいだろう、と予想していた。

もっともそのD組からコスタリカが出てくることまでは、恐らく世界中の大多数と同様考えてもみなかった。実際直前の親善試合で日本と対戦した時まではコスタリカの躍進を信じた人は、同国関係者以外にはいなかったと思う。

これまでの4年間でうすうすと感じていたことが、本番の試合を経験したことで確信につながった面があるので、どうせ影響力などみじんもないが(笑)、今後のために記録しておくことにする。久々のブログ記事更新である(苦笑)。

1.発動されてしまった法則
誰の目にも明らかだが、これまでの4大会、日本はGL敗退、ベスト16、GL敗退、ベスト16と交互に成績の山がある。フランスも似たようなものだが、この法則が発動されないことを願っていたがダメだったようだ。しかもベスト16に進出した時の初戦は1勝1分けだが、GL敗退の時は初戦黒星である。

もう1つ法則があった。それは監督である。GL敗退の時の監督はW杯初体験なのである。98年の岡田武史と06年のジーコ。対してベスト16進出の時は02年のトルシエ(途中で解任されたが南ア代表監督を経験している)と10年の岡田武史。そして今回のザッケローニは代表監督初体験の人である。

経験の無さは、劣勢に立った時、試合終盤で追い込まれた時の対応に如実に出る。98年の岡田武史は自身もアジア予選途中で加茂周の代わりに引っ張り出され、日本代表そのものが初出場で世界レベルになかったというハンディはあるものの、初戦、2戦とも0-1で負け。得点をして引き分けに持ち込むか、最初からガチガチに守って0-0に持ち込むことができなかった。ジーコに関しては、現役選手の時の輝かしい実績や総監督、テクニカルディレクターとして果たした鹿島アントラーズに対する多大な貢献を横に置けば、悲惨の一言に尽きるだろう。選手の自主性を重んじると言えば聞こえは良いが、実際は中田英寿が王様のチームで方向性が定まらなかった。初戦の豪州戦で先制した後の戦い方が明確でなく、逆転を許してしまったのが全てである。全盛期だった高原直泰が血栓症で出場できなかった不運はあるけれど。

2.そしてザッケローニ
人柄の良さ、親日家になってくれた点というサッカー以外の高評価はともかくとして、日本の良さを活かした組織的で俊敏な攻撃的なサッカーを標榜したことは評価してよいと思う。決定力不足が長年の課題だった日本代表がこの4年間でそれを克服しつつあるように思えた。少なくとも13年のコンフェデ杯や秋の欧州遠征でのオランダ、ベルギー戦、そして今回の直前の親善試合の3試合を見れば期待が持てた。

だが、アジアカップ、アジア予選や東アジア大会、負けた親善試合などを見ていて気になったのは、選手交代のダメさである。6人の交代枠がある時は上手く使うことがあっても、公式戦で3人の交代枠になると、意図の不明な交代をしたり、交代のタイミングが遅かったりというのが気になっていたのである。

遠藤が途中交替した時に試合の流れを変えて好成績を収めたという最近の傾向があり、長谷部が長期離脱から復帰したこともあり、なんと本番では長谷部先発、後半に遠藤と交代というのがお決まりになってしまい、3人の交代枠が実質2人になってしまった。ギリシャ戦ではそのうちの1枠しか使っていない。こんな交代をするのなら何故青山敏弘をえらんだのだろうか。そしてあの試合、最後の1枠にドリブラーの斎藤学を使って欲しかったと思うファンも少なくないと思う。

今回、上手く選手交代を使って結果を残しているチームが多いことを考えると、今後は的確な選手交代というのが代表監督に一層求められるのだと思う。ザッケローニは残念ながらその資質に欠けているようである。

本番で非難を浴びている追い込まれた終盤でパワープレーに走る点だが、これは選手選考を見た時に「ああ、ザッケローニは空中戦を捨てたな」と誰もが思ったのに、である。終盤のパワープレーは当然の選択肢という意見もあるが、それなら豊田陽平か川又堅碁あたりを選んでおくべきだったろう。それ以外にも選手のポジションなどで迷走が見られる。岡崎、大久保、香川の起用に関して顕著である。

お得意の3-4-3のシステムが定着していれば戦い方の幅も広がったのだろうが、この点についての総括もすべきだろう。もっとも私は90年代のイタリアサッカーに詳しくないので調べてみたら、これが成功したのはウディネーゼとACミランのみであり、しかもビアホフという選手がいたからだ、という評価である。4-2-3-1とシステムこそ違え日本代表でザッケローニが本田圭佑中心のチームをつくったのは偶然ではないのかもしれない。

今日のニュースでは、ストレスから解放するために、予定していた練習を中止して休息日に当てるということである。これも上手く行けばよいが、コロンビア戦で結果が出なければ思いつきに過ぎないということになる。上手く行かなかった場合の対応も予め想定しておくべきだった。

彼は融通の利かないタイプのようだが、それでいて危機に直面するとパニックに陥って自身の脳が混乱を来すようである。冷静な危機管理能力も次の監督には求めたい。

3.JFAのサポートは的確だったのか。
泥沼と言えば今日か責任者である原専務が2戦終わった段階でザッケローニと話をしたというのも泥縄であるが、初戦の試合地であるレシフェのスタジアムを昨年のコンフェデ杯で経験したというところにそもそも慢心があったのではないか。

今回、初戦、2戦目とも雨中の試合である。芝の長いという南米のスタジアムはパスサッカーに不向き(スペインも苦戦した)な上に雨まで降ってはかなり苦しい。蒸し暑さは予想していたようだが、雨対策まで考えていたのだろうかという疑問がわく。

そしてキャンプ地と移動距離である。鹿児島とフロリダで暑さ対策をするので、拠点は涼しくてもよいということのようだが、本当にそれで上手く行ったのか。長距離の航空機の移動で選手が疲労しているという報道があるが、レシフェとナタウは比較的近く高温多湿なのに、わざわざ何千kmも移動するのが本当によかったのだろうか。それも初戦に勝利していれば苦にならなかったのかもしれないが、結果がついてこなければ長距離の移動や気候の変化は心身共にダメージとなる。

キャンプ地の選定に関して、JFAの大スポンサーであるキリンの工場があるから、という見方があるが、これに関しては正確な内部情報を持ち合わせていないので何とも言えない。ただ今回のように結果がついて来なかった時に、こういう疑惑の目で見られないような公正な姿勢をJFAには持ってもらいたい。

初戦が大切ということでピークを持っていくという点に関しても、見ている限りでは上手く行っていないように見える。コートジボワールの日本対策の方が上回っていたのだろうが、そうだとすれば、情報戦や分析戦で敗北したことになる。ザッケローニとラムーシは師弟関係とのことだが、ラムーシの方が1枚上手だったようである。

4.日本選手のメンタル
今大会の日本代表の2試合を見て、低レベル、下手くそといった非難があるが、今季調子のよくなかった本田や香川はともかく、多くの選手が欧州で活躍しており、その批判は当たらないと思う。4年前と比較してもレベルは上がっているとみて間違いない。問題は他国も同様に進歩している点であり、今大会は疲労のためか欠場したスーパースターとは別に、ダークホースのような若手も出てきている。どうやら日本選手のメンタルが、レベルアップした技術や戦術、フィジカルを本番で発揮できないようにしていると思えるのである。模擬試験で良い点を取るのに本番の入試でダメな受験生みたいである。

初戦のコートジボワール戦を見ていれば明らかだ。前半16分に本田が先制し、その後も内田や本田が惜しいシーンがあった。しかしこれが決まらず前半30分あたりから守りに入ったのが明らかだった。初戦に勝ちたいという重圧からか、攻撃サッカーが影を潜めてしまった。こういう時、監督は攻めろというサインを出すはずであり、ハーフタイムでそういう指示はあったのかもしれないが、それで切った交代カードが長谷部→遠藤というちぐはぐさであった。同点にされた後の戦い方も明確でなかったようで、最後まで攻める姿勢があれば立て続けに失点することはなかったかもしれない(監督が選手交代のカードを切ってもよかったと思うが)。

パワープレーに関して選手達は「監督の指示だから従う」と言っているようだが、反旗を翻してパスサッカーを徹底してもよかったのではないだろうか。どうせザッケローニは今大会限りなのである。監督に逆らうのはよくないかもしれないが、理不尽な指示であれば従わずに最後まで自分たちの本来のあり方を貫き通すというメンタルがあってもいいのではないだろうか(そういう結果にならないような監督選びが第一であることは言うまでもないが)。

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2014年1月 5日 (日曜日)

あけましておめでとうございます

相変わらず放置状態のブログですが、本年もよろしくお願いします。
毎年、新年早々に迎える誕生日。今年は8の倍数の年齢になるのですが、過去40歳と48歳の時に体調不良があったので、今回は3度目の正直で無事に乗り切れればいいなあと思っています。と言いつつ正月から食べ過ぎた(笑)。

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2013年7月 1日 (月曜日)

月(天体じゃなくて暦)の名前

全く予定も予算もないのだが、一度極東ロシアに行ってみたいなあ、と思うようになった。昨年のNHK教育テレビのロシア語講座でシベリア4都市紀行というのをやっていて(再放送だけど)、テキストを購入して録画したのを今になって少しずつ見ている。一方で今年の新作サンクトペテルブルク編も閉講して視聴中。

ということで、少しロシア語に馴染んできたのだが、月の名前は全て英語やフランス語などと同じ語源である。例えば7月は英語のJuly、フランス語のJuilletに対してロシア語はйюль。欧州の主要言語はだいたいこのパターンであろう。

要するに面白くはないのである。日本語の1月、2月…、に比べればましとも言えるが、9月から12月は7〜10の数詞がベースだからやはり似たようなもの(笑)。

さて、その日本語には睦月、如月、弥生、卯月…師走という旧暦の月の呼称があり、こちらは風土や文化とも関連した独自の呼称である。

フィンランド語の月の呼称がやはりtammikuu,helmikuu,maaliskuu,huhtikuu,…,joulukuuといった呼称で、意味のある名詞(原義が不明のものもあるが)+月(kuu)で日本の旧暦の呼称と同類であるようだ。

面白いのは、ロシア語と同じスラブ系の言語のチェコ語(と言ってもロシア語は東スラブ、チェコ語は西スラブで「遠い親戚」だが)である。曜日の名前はロシア語とチェコ語で語源が共通していると思われるものが多いのに対して、月の名前に関してはチェコ語は独自なのである。1月はledenといい、これは氷が語源のようだ。以降12月まで全て同様。6月から8月もローマ皇帝由来の言葉ではないのだ。

11月はlistpadというが、これは葉が落ちるという意味らしい。日本語では旧暦8月が葉月だが、こちらも季節的には葉の落ちる時期である。同じような発想だが時期が違うのが気候の違いを繁栄しているといえよう。

だから何だという一種のトリビアであるが、いろいろな外国語をかじるとこういう比較が出来て、外国の歴史や文化の一端が垣間見られるようで面白い。

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2013年1月 1日 (火曜日)

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

発言の主体がツイッターになってしまったので放置状態のブログですが(笑)、閉鎖はしませんので、本年もよろしくお願いします。

今年は親学やEM菌、ナノ銀除染などの偽科学に嵌まっている下村博文・文科大臣の言動を監視していくのが課題の1つだと考えています。震災復興やエネルギー問題にも目が離せません。もちろん経済再生もです。

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2012年9月25日 (火曜日)

我が儘な滋賀、京都と大阪。JR東海は我が道を行くべし

JR東海の山田社長が吠えている。結構なことである。東海道新幹線という収入源を有して経営基盤がしっかりしているのだから、政治の介入を拒否するのは民間企業としては当然のことだ。何のための国鉄の分割民営化だったのか、国や地方自治体はもう一度よく考えてみる必要がある。

まずはこれ。
「滋賀に新幹線新駅あり得ない」JR東海社長、明確否定

このおばちゃん知事は、原発再稼働でもトチ狂ったことを言っていたが、この件では虫が良すぎるだろう。JR東海からすれば何を今更である。リニアの開業で東海道新幹線がローカル化することは間違いないが、ひょっとすると北陸新幹線の乗り入れということも考えられるし、リニアの名古屋開業時点では名古屋・新大阪間の幹線としての位置づけは継続する。

次はこれ。
リニア中間駅 京都駅併設は困難 JR東海・山田社長
続き

ここでも、法律を読めというJR東海の姿勢は正しい。行政が法律を無視してどうなるのか。
古都だの国際観光都市だの言えば何でも通ると思ったら大間違いだ。東海道新幹線の時も京都は駄々をこねた歴史がある(「ひかり」は当初京都を通過する予定だったのを停めさせた)。リニアの輸送スタイルを考えれば、以前にも書いたように航空機に近いのだから、出来るだけ直線に近いことが望ましく、そうなると京都駅乗り入れなどというのは滋賀にも、もとい歯牙にもかからない要望である。

そして最後は大阪。
我慢も限界?リニアの大阪早期開業「ありえない!」 JR東海の山田社長
続きその1
続きその2

気持ちは分かるが、やはり無理を言ったらいかん。以上。

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2012年7月23日 (月曜日)

専門家を排除しようとする風潮

昨今の日本はすっかり素人社会である。テレビにはコメンテーターと称する連中が登場して、ろくに勉強もせずに大衆受けしそうなことを専門外の分野で好き勝手に話している。

エネルギー政策を考える意見聴取会では、電力会社の社員が排除されてしまうことになった。
このまま素人主導で今後のエネルギー政策が決められてしまうと、日本社会はますます混迷を深めるのではないかと危惧される。

さて、自分の専門分野に関連していうと、実はもう何年も前から絶望的である。
「市民参加のまちづくり」とやらがすっかり定着し、プランナーがファシリテーターに転職している。これははっきりと転職と言ってよいと思う。プランナーにファシリテーターの素養は必要だが、自分で計画をつくることが第一義ではなく、素人の意見を調整集約することが第一義になってしまっては職能は違うからである。都市のフィジカルプランニングは専門的トレーニングが必須だと今でも私は確信している。それは大学での専攻という狭い意味ではない。

行政からあるテーマで業務を受託し、会合の場に行くと多数の「市民」が待ち構えている。その中には、専門家として正当に契約を締結し報酬を得て業務を遂行しようとする我々に対して、どういう権限で出席しているのか、契約金額はいくらかなどと堂々と尋ねてくる。大きなお世話だ、そんなことを開かす必要もないし、大した金額ではない(のに「そんなに貰っているのか」と反発する奴までいる)。

専門家を軽視し、排除しようとする芽は恐らくそこここに存在するのだと思う。
最近は幸か不幸かこういう場にお声もかからないのだが、かかってもこういう場には出たくはない。雀の涙ほどの金で不快な思いをするだけなのだ。

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2012年5月29日 (火曜日)

生活保護と扶養の問題について考えてみる

次長課長の河本準一の母親の生活保護受給の問題が世相を賑わしているが、当事者や行政関係者ではないので個々の事例について言及するだけの情報は持ち合わせていないので、今回はそのことではなく、この問題から出てきた「子による親の扶養」について考えてみたい。

小生は法律の専門家でも法学者でもなく、大学の一般教養で法学を学んだ程度ではあるが、専門分野では関連法規を扱ったこともあり、法律論を展開しても許されると思うので、その点は予めご了解いただきたい。

子による親の扶養の根拠は民法第877条にあり、次のような条文である。

(扶養義務者)
第877条 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。
《改正》平16法147
2 家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、3親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。
《改正》平16法147
3 前項の規定による審判があった後事情に変更を生じたときは、家庭裁判所は、その審判を取り消すことができる。

これは、子供は常に親を扶養しなくてはならない、ということではなく、「扶養義務とは,独立して生活していけない人に対して,経済的に支援してあげなければならない義務のことをいいます」ということらしい(−民法の取扱説明書− 扶養の義務とは?)。

さて、どの法律でも制定された時期があり、その時代背景と目的を考慮しないと、時代錯誤の法律が現実社会に適合せず、法律を墨守することが自己目的になってしまうという弊害があるのだが、しばしばそのことは無視される。典型例は少年法だろう。戦後の貧困と食糧難の中で、空腹に耐えかねてついつい食糧を盗んでしまった少年少女と現在の少年少女を同一に扱うのはおかしいのである。この場合、必要なことは恐らく法律の改正なのだが、政治家も法曹界もそういうことはしない。現状が彼らの都合によいからだろう。

さて、民法第877条は、当初の民法(明治29年4月27日制定)にあったわけではないが、第4編として約2年後の明治31年6月21日に制定された。当時の産業構造や家族構成、平均寿命などを考慮する必要があるだろう。すなわち農林水産業が主体で大家族、OECD資料によると1900(明治33)年の日本の平均寿命は44歳である(平均寿命の歴史的推移)。

もちろん平均寿命だから長生きする人もいることは間違いないが、子育てが終われば人生も終わる、というのが多数だろう。明治期の合計特殊出生率のデータが見あたらないのだが、団塊世代の頃で4.5程度で恐らく5前後だろう。乳児死亡率が現在の60倍くらい、普通死亡率が7倍くらいと高いが、実際の状況を見れば子沢山なことに疑いの余地はない。大家族だから世帯分離せず三世代同居が普通。次男以下も同一敷地内か近所に居住する。嫁入り先も近在の集落が大半だろう。
参考:歴史的に見た日本の人口と家族

という風に考えれば、民法第877条というのは制定当時の社会状況の追認であり、ごく自然に社会に受け入れられる内容だったと考えるのが自然である。

現代ならば生活保護の対象になる困窮者にしても、村落共同体でその救済に当たったであろうし、給与収入がなくても食糧は身の回りにある。もちろん現在のような豊かな社会ではないにしても、何とか生きていくことはできたであろう。それすらできない最悪の場合は共同体全体の崩壊か、相対的に裕福な都市部への「娘の身売り」かもしれないが、現代ですら困窮者の100%救済はありえないのだからいたしかたない。

現代とは社会状況が全く異なるのである。だからこそ高齢者や障碍者のための社会保障があるのである。若者は老い、健常者は常に障碍者となる可能性を孕んでいる。だから社会保障はセーフティネットとして社会の構成員全体に必要なのだ。

そういう時代に「年老いた親の面倒を子供が見るのは日本の伝統なのだ」という虚構をもって国民に道徳を説く政治家は警戒しなくてはならない。

民法の扶養義務規定は、現代社会の社会保障と整合性がとれるような形での改正が必要なのだと思う次第である。

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2012年4月11日 (水曜日)

縦揺れがないけれど

先日、某所で地震の揺れのシミュレーションを体験した。

過去の地震の揺れを再現するという物で、10以上の地震がメニューにあるのだが、待っている人もいて自分で選んだり複数選択することは出来なかった。私の順番で係員が選択したのは兵庫県南部地震(所謂阪神大震災)の震度7という揺れ。

実際に体験したことが内のでかなり緊張したのだが、実は揺れてみると拍子抜け。
原因は椅子にあると思う。揺れは座っている椅子の動きで再現されるので、縦方向には全く揺れないのだ。実際の兵庫県南部地震は直下型ということもあり、縦揺れが激しかったのだろうが、それが再現されていないことで、予期していたよりも揺れが弱く感じられたのだと思う。

ただし横方向の揺れは相当のもので、もはや揺れというよりは「ずれ」と言った方が適切である。
達磨落としにもしもなったとしたら、叩かれた時にはこんな感じなのだろうなあ、というくらい横方向の力は強かった。立っていて後ろ向きにあの力が加わったら、間違いなく転倒する。もっとも震度7ではそうなる前に立っていられないのだが、仮に四つん這いになっていたとしても、宙に浮いてすっ飛ばされるような感覚なのだろうと想像される。

さて、機会があったら今度は椅子型のシミュレーションでなく起震車にでも乗ってみよう。過去に一度乗って震度6は体験したことがあるが、可能ならば震度7を試したい。

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2012年3月11日 (日曜日)

東北地方太平洋沖地震から一年だが

予想通りというのか予定調和というのか、テレビも新聞も特番、特集記事のオンパレードだ。
テレビ東京だけがいつも変わらない番組編成なのも予想通りである。

今月に入ってから今日に向けてクレッシェンドがかかっていた。私は勝手に3月ジャーナリズムと称している。恐らく8月ジャーナリズムと違って60年も持たないだろうところが違う点だが、客観報道から離れてお涙頂戴だの祈りだと風化させるなが満載だ。

正直言って見る気がしないし実際に見ていない。
備えは必要だ。復興も必要だ。被害者の追悼も一年忌だから当然だ。

しかしマスメディアがこれでもかこれでもかと圧倒的な映像と音声で迫ってくるのは勘弁して欲しい。
大阪大の菊池誠教授(キクマコさんの方が通りがいいだろう)は今日の午前のツイートで「BGMは不要。効果音も不要。不要というより邪魔」で批判していたが、全く同感である。必要以上に感情に訴えて刺激するので邪魔と言うより害悪ですらあるかもしれない。

反原発のデモなどというピントはずれの騒ぎをしている連中もいるようだ。自分勝手な正義感を振りかざす輩が被災地とは関係ないところに大量に湧いて出てきたのもこの一年だった。収まる気配はなさそうなのでこういうNoisy minorityはもう無視するしかない。もはや絆だの心を1つにだのがんばろう日本などといった言葉は空しいだけである。

心臓の手術の後の経過がよくなく、胸に水が貯まったのを除去して4日しか経過していない天皇陛下が恒例にも拘わらずお言葉を発せられたのには頭が下がる。これには感銘を受けた国民も多いはずだ。陛下のお気持ちに感謝しつつ、それぞれの立場で出来ることを今後も淡々とこなしていくことが肝要だし、それしかないのだろうと思う。

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2012年3月 3日 (土曜日)

「高齢出産」が困難なことに変わりはない

2月14日のNHKクローズアップ現代で「産みたいのに産めない ~卵子老化の衝撃~」(テキスト部分のみの魚拓はこちら)が放映されて、少なからぬ女性が衝撃を受けたようだが、アンチエイジング、某政治家の人工授精による出産、高齢芸能人女性の妊娠のニュースなどで惑わされて何歳になっても子供は産めるとでも思っていたのだろうか。

高齢芸能人に関しては、妊娠だけがニュースになって目立つから、実際には妊娠しにくいということに気がつきにくいのだろう。また産んだ後の苦労の話はほとんど報道されない。

ところが、3月1日にこんなニュースが登場した。
卵子は次々に作られる、幹細胞の新研究ウェブ魚拓

仮にティリー氏による卵子の幹細胞の存在という「ミクロの現象」が事実だとしても、その発見によって高齢出産が容易になるわけではない。それは長い歴史の中で多くの女性が証明している「マクロの現象」である。

1度に受精できる卵細胞は1つである。卵子が完全に入れ替わる訳ではないから、幹細胞によって新しく生まれた「新鮮な」卵子が常に受精の対象になるとは限らないだろう。

報道によると、ティリー氏も「出産年齢の女性の卵巣にこうした卵子の前駆細胞があることと、年齢を重ねると生殖能力と卵巣の機能が低下するという事実とはまったく矛盾しない」と言っているので、加齢による卵巣の機能低下までは否定していない。

科学的に新たな発見があったとしても、ミクロなメカニズムが書き換えられるだけで、普遍的に見られるマクロな現象を変えるわけではない。もちろん、今回の話題に関して言えば、卵細胞を全て新しいものに置換できるような技術が開発されれば話は別であるが、そういうことではない。

仕事を持っていようが持っていまいが、子供が欲しい女性が20代のうちに安心して出産・育児のできる環境をどうやって実現するか、改めて考える必要があるだろう。例えば専門的な仕事などであれば、出産前後の産休はやむを得ないとして、妊娠中や子育て中の自宅就労などを積極的に採り入れてもよいと思う。そういうことが可能な条件はITなどで揃いつつあるはずである。

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2012年3月 2日 (金曜日)

お天気を伝える側の表現がおかしい

表現がおかしいというよりは、その根本にある捉え方がおかしいのかもしれない。

早いものでもう3月に入ったが、閏日の先月29日にかなりの降雪があった。

テレビのニュースや天気予報では「もう3月になろうとしているのに」という表現が多く聞かれたが、こちらの方が違和感がある。

気象庁のデータで東京の過去の3月の降雪合計を見てみると、2005年に2cm、2004年・2001年・1999年・1993年・1992年・1989年・1985年・1983年・1982年に0cm、1998年に6cm、1996年に0cm、1995年に2cm、1988年に1cm、1987年に5cm、1986年に10cm、1984年に3cmとなっている。(0cmは降雪があったが1cmに達していない)。なお、1988年は4月に9cmの積雪を1日記録している。1981年以前では1973年以降毎年3月に積雪が記録された。データによれば1960年代には4月でも東京に降雪が記録された年が複数ある。

1986年は春分の日に9cmの積雪があった。知り合いの結婚式の日(私は呼ばれていないが)だったので、「3月の大雪」として記憶している。

最近でこそ3月の降雪は少ないが、こうしてみれば3月の東京に雪が降ることはそれほどおかしいことではない。

いつ頃からだろうか、天気や季節というのは安定しているものという前提でマスメディアが情報を流すようになったように感じる。前にも述べたが、過去30年の平均値である平年値の「平年」という言葉が人を騙すのだ。

極端な例を言えば、30年間年平均気温が毎年15℃でも、1年おきに0℃と30℃を繰り返しても、年平均気温の平年値は15℃である。では、前者は安定した気象で後者は異常なのだろうか。人間の直感からすればそうだろうが、毎年同じ気温などというのは、それはそれで異常である。

つまり、毎年同じ気象条件などということはあり得ず、寧ろ毎年が「異常気象」の連続と言った方がよいと思うのである。前の年と違う気象条件だと特に異常だ、異常だと騒ぎやすい。似たようなことが過去にあっても人間は忘れる動物だから、今初めて異常に遭遇したような気になるのだろう。それはそれで生存のための本能なのかもしれないが。そして、安定した気象を前提にするから、「地球温暖化問題」でも過剰反応をしてしまうのだろう。

立春を迎えたのにまだ寒い、というような表現をするアナウンサーや芸能人もいる。

立春というのは寒さのピークなのだ。そこから徐々に暖かくなっていく。文字通りあくまで春のスタートであるから寒くて当然である。春という文字だけを見ているからおかしなことになる。公共の電波を使って天気ネタをしゃべるのであれば、一度旧暦や二十四節気あたりについて勉強してからにしてもらいたい。

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2012年2月13日 (月曜日)

年のせいか風邪が治りにくいわい(笑)

5日の昼間から具合が悪くなって一週間くらい体調不良が続いてしまった。最初に喉が痛くて咳が出て、それから胃の具合がすっきりせず、最後は全身がだるいという具合。発熱したのは7日の火曜日だけだったのだが、どうも気管支炎と胃炎を起こしたようだった。コンタクトレンズをしていることもあり、帰宅後の手洗いは入念にしていたのだが、寒さに勝てなかったようだ。

40代までなら熱の引いた水曜日あたりから通常の生活に戻れたのだが、今回はダメだった。胃がおかしいので食欲もあまりなくて、体力を消耗したことも大きかった。

ちょっとした風邪でも一週間ロスするということは、うかつに風邪もひけないということだ。
これまで以上に罹患しないよう予防に気を付けるしかない。

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2012年1月29日 (日曜日)

座布団を固定しろ

大相撲初場所は、苦情付きながら把瑠都が優勝した。苦情は立ち会いの変化に対してだが、とっさに変化したとすれば責められないだろうが、大関たるものそうならないように日頃から心身の鍛練をすべきだと言われると私には反論できない(笑)。来場所で把瑠都がまた優勝してしまったら、外国人嫌いの連中は上を下への大騒ぎだろうな。それはそれで見てみたい気もする。

さて、その把瑠都が変化した勝った一番だが、最近相撲に対する関心が薄れているので中継を見なかった。
新聞記事によると例によって座布団が乱舞したようだ。

こういう時には必ず「危険ですから座布団を投げないでください」とアリバイ的に館内放送で注意がなされるのだが、そんな光景はもうかれこれ50年近く見続けている。1度だけ両国で生で相撲を観戦したことがあるが、座布団を投げるなという注意書きがあったと記憶している。

本当に危険だから投げるなと言うなら、座布団は座席に固定しろ。
八百長問題やら年寄株の問題やら、様々な相撲協会の負の体質は本質的に変わっていないと思うが、それとは別に観客の身の安全が守れないような組織に公益財団法人に地位を与えることを許すべきではない。

大学時代の恩師の1人でもある伊藤滋氏が外部理事を退任するが、これまた報道によると伊藤氏も含めて退任する3人の外部理事は協会改革の道筋がついたような口ぶりだが、恐らく社交辞令だろう。

相撲協会の公益裁断法人移行問題では、監督官庁である文科省の断固たる姿勢を望む。

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地震学者は狼少年化するのか

東大の地震研が首都圏直下型大地震が4年以内に70%の確率で起こる可能性があると発表して、けっこう世の中が振り回されているように思われるので、少しばかり考えるところを述べてみようと思う。

どうも想定外のことが起きてそれを予測できなかったというトラウマでもあるのか、俄に地震学者の声が大きくなったのが気になるのである。もちろん謙虚にこれまでの研究内容を見直し、地道に実証データを集めて、これまで看過されてきたことをきちんと把握し、より正確で信頼に足る高いレベルの研究成果を導き出そうとする姿勢は大いに支持したいところであるが、時流に乗じて世間の危機感を必要以上に煽って予算獲得を有利に運ぼうとするのであれば、それはあなた狼少年で、逆にそのうち信用されなくなるよ(信用されなくなったところで大きな地震に襲われるのが一番の不幸である)と言っておきたい。

まず、周期的に大地震が襲ってくるというのは、眉唾ではないか、ということ。ロバート・ゲラー東大教授が地震予知は不可能だ、予算の無駄遣いだと主張しているが、多分そうなのだろうと私も考える。人間の考える数十年から千年程度の「周期」と地質学的な時間の「周期」が果たして同期するのだろうか、ということである。発生メカニズムを考えればある程度の周期はあるだろうが、数十年程度のずれはあるだろうから、そうなるとこれはもう1人の人間が生きている間に1回しか起こらないか2回起こるのか、というくらいの違いになる。まあこれはきちんと実証データに基づいた計算でも何でもなく直感なので(笑)、逆に3回くらい大地震を経験する人がいてもおかしくはない。いずれにしても、少なくとも76年に1回やって来るハレー彗星のような訳にはいかないことは間違いない。

何が言いたいのか。東京のような地盤も脆弱、しかも複雑なプレートの上に立地する大都市では、いつお地震が起きてもおかしくないので、何年以内に何%の確率などということとは無関係に、常日頃から防災対策を心がけるべきだ。東海地震の150年周期説は恐らく石橋克彦教授の勇み足だろうが、そのおかげで東海地方の人達の防災意識は高い。同様の意識を首都圏住民も持つべきだ。

さて、直下型地震、すなわちプレート内地震であるから、津波の危険性はまずないと言ってよい。東北地方太平洋沖地震があまりにもショッキングだったので、皆過敏になっている。もちろん襲ってくるのはプレート内地震だけではない。相模湾あたりを震源とする1923年の大正関東地震のようなこともあるから、津波に警戒すべきであることは言うまでもないのだが、少なくとも「直下型地震」で東京が大津波で壊滅することはない。

それからインフラであるが、万全はないものの、明治以来の不燃化、耐震化の施策は百数十年積み重ねられており、その間の各地の大地震の影響も踏まえて、法制度も施策も後退したことはない。防災システムも進化している。堅牢建築物や公共交通機関にいれば、睡眠中の家具倒壊などを除けば、命の危険はまずないだろう。オフィスでは大型の設備機器が滑らないようにキャスターはきちんと固定しておくべきだ。

首都高速なども耐震補強が進んだので、阪神大震災の時のような崩壊は考えにくい。
しかしアクアラインのような海上区間、湾岸道路のような沿岸区間や山手トンネルのような長大トンネルが出来ており、またカーブも多いことから、道路外に放り出されたり転落したり、あるいは車両火災などの危険は考えられると思うので、道路管理者には更なる災害対策の進化を望みたい。

問題の1つは未だに多く残る老朽木造住宅密集地域である。東京ガス管内では大地震時の対策が進んでいるので、食事時でも火災の発生の可能性は低いと考えられるが、それでも地震発生時の時間帯や季節によっては火災の発生の危険性は考えられる。冬季の乾燥して風の強い時期などだと延焼が拡大する。これについても建替えや不燃化促進などの事業が以前から実施されているが、ごく一部の地区しか改善されていない。こうした老朽住宅は強い揺れで倒壊する危険性も大きい。一気に解決できる問題ではないので、考えられる各種の施策を組み合わせていくしかないだろう。

埋立地の液状化も、今回浦安あたりで露呈したように大きな問題である。地盤強化は費用負担の問題などもあり実現は困難だろうし、基礎がしっかりしていれば家屋の倒壊の危険性は少ないので、むしろ損傷した水道、ガスなどのインフラの早期復旧や住宅の修復をどうするのか、予め対策を講じておく必要があるだろう。

火災でいえば、大きな揺れに起因する東京湾岸の石油やガスの備蓄タンクの火災が問題だ。今回の震災でも実際に火災が起きているが、首都圏直下型となるとあの程度では済まないだろう。これは行政と当該企業とで対策を講じてもらうしかないのだろうが、我々も普段からその危険性を意識して、もしも近くで火災発生に遭遇した場合、どのような避難行動を取ったらよいのか頭に入れておく必要がある。

残るもう1つの大きな問題は、帰宅困難者対策である。公共交通に乗車していて命を落とす危険性は前述のような高くはないだろうが、長時間運行停止となるのは不可避なので、鉄道事業者の危機管理が重要である。PASMOで連携できるのだから、各鉄道会社は地震対策でもきちんと連携すべきだ。A社とB社で対応が違うのでは利用者の不満が爆発してパニックになってしまう。
無理して帰宅するなというのだが、恐らく強行軍で徒歩帰宅しようとする人はなくならないだろう。平時には頭で分かっていてもいざ大地震発生となれば平常心ではいられまい。オフィスビルに食糧や毛布などを備蓄して緊急避難所にする取り組みが進みつつあるので、これが実効性をもつような避難訓練や防災教育が必要だ。

「直下型大地震が襲ってくる→漠然と身の危険を感じる」という具合に漠然とかつ過剰に心配する必要はないだろうが、起こりうる具体的な事態を頭に入れて、いざという時どのように行動したらいいのかという、当たり前のことを再確認する必要がある。市区町村レベルの基礎自治体は徒に危機感を煽るのではなく、逆にこうした機会に、それぞれの地域性に適合した具体的な大地震対策を住民に周知すべきである。

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2012年1月10日 (火曜日)

石原慎太郎の「妄言」

昨日の産経新聞に掲載された石原慎太郎東京都知事のエッセーが酷いのである。

地球は滅びるだろう

以前から、二酸化炭素を地球温暖化の主犯と断定して、これに基づいて暴走政策を採っているのだが、この記事を読んで得心した。例の我欲発言と通底しているのである。

彼にしてみれば、今の文明社会は容認できないのだろう。自分自身は現代文明に乗っかって時流に乗り、世に出たわけだが、「転向」を認めて開き直っている。

「やはりこの地球は間もなく滅びるような気がする。」
あんたが先に滅びてくれ。地球という惑星は簡単には滅亡しないし、人間の生存空間もそうそう簡単には壊れないだろう。大気圏はそうそう簡単に一方向に暴走するだけのシステムではないからだ。

「これから九年の間温暖化は加速されて進み、異常気象は最早異常なものではなしに正常なものとなっていく、いや既になっている。」
そもそも異常気象とは何か。気象は毎年違っている。そういう意味ではもう何億年も異常気象の連続である。それだけのことだ。

「世界中の氷は溶け続け、NASAのハンセン教授の予測通り北極海の氷も後十年わずかで消滅するだろう。」
石原もハンセンもまず間違いなく数十年後には生きていないから、煽っても結果が違っても責任が取れない。

「それによって大洋は水かさを増し続け、増えた水は地球の自転の遠心力で赤道付近に集まり」
えっ、そうなの?しかし地球の自転速度も徐々に減少しているから、相殺されるかもしれない(笑)。
いや、この理屈が正しいなら、もしも寒冷化になって太陽の水かさが減ったら(そんな単純には行かないだろうが)赤道付近の海水面は下がることになる。

「ツバルのような砂州国家は水没し」
ツバルに関しては、水没の原因は「地球温暖化による海水面上昇」以外にいろいろと指摘されている。

「その生命の存在をも否定しかねない幼稚さの所以とは、文明が育んだ人間たちの我欲に他ならない。」
ここで我欲が出てくるわけである。しかしこういう思い込みの塊の文章を書いて恥じないようでは、石原自身が幼稚なのではないかと思えてくる。

「刻一刻進んでいる温暖化による地球の毀損を防ぎ得ないのは自明のことなのに」
少しも自明ではないだろう。本当に自明なら世界中の科学者から疑問や反論など出て来るはずがない。

石原はチェコ大統領ヴァーツラフ・クラウスの著書 <「環境主義」は本当に正しいか?>は読んだのだろうか。いや、ここまでカルトのように二酸化炭素温暖化主犯説に取り憑かれているようでは、読んだとしても、クラウス大統領を罵倒するだけだろう。情緒的、観念的な文学者と経済学者の違いはぬぐい去りようもない。

次の東京都知事にはクラウス氏のように、現実を見据えて冷静中立で論理的思考の出来る人物を切望するばかりである。

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